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聖霊降臨の大祝日の前日のミサ 「聖霊降臨には何が起こったか?聖霊とは?聖霊がこの世に来られた理由とは?」

2017年09月26日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年6月3日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年6月3日(初土)聖霊降臨の大祝日の前日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年6月3日、聖霊降臨の大祝日の前日のミサを捧げています。

今日は、グレゴリオ聖歌を歌う聖歌を皆さんにも知って頂きたいと思い、「皆さんどのような方でもグレゴリオ聖歌を一緒に勉強して練習しましょう」という集いも作ろうという事になり、インマクラータさんにその集いの代表をしてもらう事になりました。

土曜日のミサが終わったら、15時頃から、どなたでもグレゴリオ聖歌の練習をしようという事になりました。

グレゴリオ聖歌を、色んな方々に、ラテン語を知らない方も、インマクラータさんが親切に教えて下さいますので、もしよかったらぜひ練習なさって下さい。多くの方がグレゴリオ聖歌の美しさ、その深みを知って頂けらなぁという、願いが込められています。

今日は初土曜日ですので、この初土の信心もどうぞご一緒になさって下さい。

今日はさらに聖霊降臨の前日ですので、昔の典礼によると大小斎の日でした。そこで、もしもできる方はそれをなさって下さい。今では厳格な義務ではないのですけれども、もしもなさりたいという方は、なさって下さい。


「私は聖父に祈ろう。そして聖父が別の弁護者を、お前たちと共に永遠に留まるように、この弁護者というのは真理の霊であって、この世が受け入れる事ができないものである。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は聖霊降臨の前日で、聖霊降臨の大祝日の準備をしています。すでに祭服とか祭壇の飾りは赤で、聖霊降臨の燃える愛の炎を象徴する赤を使っています。そこで今日は皆さんに、3つの点を黙想する事を提案したいと思います。

1つは、では聖霊降臨というのは一体何だったのか?一体何が起ったのか?いつどこで何がどうなったのか?

第2に、聖霊降臨というのは聖霊が降臨したという事で、聖霊とは一体何なのだろうか?そして一体何で降臨したのか?一体何をしているのか?

第3は、ではイエズス様はその聖霊、「真理の霊を聖父から送るように頼む。別の弁護者だ」と言うのだけれども、何でこの世は受け入れる事ができないのか?でも何で聖霊はそれにもかかわらずこの世に来たのか?

最後に、私たちはこの3点の黙想から、一体どういう遷善の決心を取るべきか、どうやったら私たちは聖霊の賜を、聖霊の恵みをよく受ける事ができて、それの準備をする事ができるか、という決心を結論を立てる事に致しましょう。

では第1に、聖霊降臨というのは一体何が起こったのでしょうか?

聖霊降臨というのは、イエズス様が御復活されて50日後に、もう少し詳しく言うと、イエズス様がを御復活されて後40日間、復活された栄光の体を持って、壁を通して来たり、本当に自分が復活されたという事を示す為に、食べたり、話したり、触ったり、教えたりしながら、時には弟子たちの為に朝食を料理して準備したりしながら、確かにイエズス様が復活されたという事を多くの人々に証して後に40日後に、天に上がりました。御自分の力で上がりました。そしてイエズス様は天に上がる時に、「エルサレムに留まりなさい」と命令しました。「聖霊の降臨を待ちなさい」と命令しました。

そこでイエズス様が昇天された10日の後に、それは週の最初の日、主日だったのですけれども、午前中の9時頃、マリア様を中心に弟子たちがお祈りをしていました。これで10日目のお祈りでした。使徒たちはユダの代わりに誰か別の、イエズス様を最初から知っているような弟子たちをくじで選びました。それがマチアでした。そのあと120人くらいの人たちが1つの所で集まってお祈りしていると、いきなり風の、ものすごい竜巻なのか嵐なのか轟々という音が聞こえて、弟子たちが集まっていた所は一階だったのかちょっとよく分かりませんけれども、おそらくいきなり風が吹いて来て、何か「一体何が起こったのだろうか!?」その突然の事で、そして家の中にその風の音が満たされました。

すると、天から火のようなものが舌の形をした、舌べらの形をした火がまず、ちょうどこのステンドグラスのようにマリア様の上に降り、満たされて、そしてそのマリア様から使徒たちの方に弟子たちの方に火が渡りました。あまりにも不思議な現象だったので、周りに来た巡礼に来た、五旬祭の巡礼にエルサレムに来ていた人たちが、「一体何の事だろうか!?」と思ってその家に集まったほどでした。

彼らは弟子たちは聖霊に満たされて、特に聖ペトロは前に出て、集まって来た人たちについて説教をして、そしてその日には3000名、「罪を悔い改めなさい。イエズス様の洗礼を受けなさい」というこのペトロの言葉に従って、3000名が洗礼を受けました。

教会では、ですから、この聖霊降臨の日には洗礼を授ける特別の日なのです。復活祭と聖霊降臨が洗礼を授ける日となっています。

では一体、このような聖霊降臨は何故起こったのでしょうか?

はい。イエズス様はこの地上に残る弟子達を導く為に、御自分は天に上って、天主聖父の前で弁護者として、私たちの為に祈りをする方として天に上ったのですけれども、その代わりの弁護者をこの地上に送ろうと思いました。それは私たちがイエズス様を、天におられるイエズス様を力強く信じて、そして私たちもイエズス様のおられる天国に行く事ができるようにと多く希望して、そして天の事を深く愛する事ができる、「信仰」と「希望」と「愛」に満たされる事ができる為でした。その為に私たち信徒を導く為に、イエズス様を信じる者たちを導く為に、聖霊を送ろうと思われました。

私たちが洗礼を受けると、イエズス様の神秘体の一部となります。私たちがする事は、イエズス・キリストの御名に於いてする事ができます。イエズス様は神秘体のかしらで、私たちはそれの体の一部となるのですけれども、聖霊は神秘体の霊魂となって、私たちを生かして下さるのです。

イエズス様は目に見える方ですが、肉体を持って目に見える方となりました。ですから私たちに目に見える秘蹟や、或いは目に見える教会や、目に見える救いの制度を作って、私たちに目に見える形で導いて下さるようにされました。

しかし聖霊は、私たちに目に見えない形で、私たちを生かす霊魂として、教会を生かす霊魂として、導いて下さいます。

では第3に、何故この世は聖霊を受ける事ができないのでしょうか?

はい。何故かというと、聖霊というのは、天主聖父と天主聖子との間にある実体的な愛であるからです。天主聖父と天主聖子との愛の交流から発生したのが聖霊です。天主の愛であって、聖霊を受けるには天主への愛がなければなりません。しかしイエズス様が今日の福音で仰る「この世」というのは、この地上の事を愛する、この地上の物質や、或いは肉欲や、或いはそれ以下のものを愛するものに満ちているので、天主を愛する天主への愛の余地がないからです。

聖霊というのは、私たちの心の中に慰め主として、光として、天主への愛をもたらすものとしてやって来るのですけれども、この世はそのようなものを受け入れようとはしません。それよりかは却って下等なものを愛して、天主からの優しい勧め、「天上のものを愛したらどうか」、平和への導きというものを拒絶するからです。それよりは自分のやりたい事をやる、自分を愛する、或いはこの被造物を愛する、という事で心がいっぱいだからです。天主を愛するその招きを拒否するからです。それよりはもっと不潔なもの、もっと下等なものに心を奪われてしまっているからです。

それでも、私たちがイエズス・キリスト様の送られる、約束された聖霊を受けなければなりません。信仰と希望と愛をますます強めなければなりません。一体どうしたら良いのでしょうか?聖霊を受ける為にはどうしたら良いのでしょうか?

私たちの心はよく準備されていなければなりません。地上のものの愛着から離れていなければなりません。天主への愛を受け入れる余地がなければなりません。地上の事でいっぱいですと、聖霊が私たちに宝物を持って永遠の価値を持って「やって来たい」と思っても、そこに入る事ができないからです。

ちょうど聖霊の降臨の時に中心にマリア様がいらしたように、私たちも今日、聖霊降臨の前日、初土曜日に、マリア様の汚れなき御心に入る事に致しましょう。今日は聖霊降臨の前日ですので、初土曜の汚れなき御心のミサはする事はできないのですけれども、そのミサにはこう書かれています、お祈りにはこう書かれています、「マリア様の御心は、聖霊の汚れなき御宿としてしつらえて作られた、準備された。マリア様はその最初の瞬間から、小さな胎内の胎児としてその命の鼓動が始まるその最初の瞬間から、聖霊に満たされて原罪の汚れのない御宿りであった。」

聖霊の充満を受けて、聖霊の愛に満たされた者であったので、既に若き16歳、17歳の時に、大天使ガブリエルから御告げを受けた時にはマリア様は言われました、「めでたし、聖寵に充ち満たされた御方よ。主は御身と共に在す」と。

マリア様は決して聖霊を拒否した事はありませんでした。聖霊を悲しましたような事はありませんでした。そればかりか聖霊の慰めであって、聖霊とまさにぴったりと一致していました。聖霊が望むような事を、お望みのままに、お望みの方法でいつも実現していた方でした。

言ってみると、マリア様と聖霊とはぴたりと一致していて、あたかも聖霊が人となって生きているかのようでした。あまりにもマリア様と聖霊が一致しているので、その一致がちょうど人間で言えば、男性と女性が結婚すると一体となるので、その一体となるというところだけを観点だけを見て、聖霊には肉体がないのですけれども、しかし1つとなったという事で、あたかも聖霊とマリア様とはそれほどの一致をもって、ですから「マリア様はあたかも聖霊の花嫁であって、浄配であるかのようだ」と神学者が聖人たちが表現、それしか表現する方法がないほどの一致を見ていました。ある聖人は、「マリア様は、聖霊を見る事ができるイコンである」とさえも言いました。

聖霊が与えようとする全ての宝物、全ての贈り物、全ての特権は、マリア様に充満していました。マリア様の特に汚れなき御心に充満していました。そのマリア様の心は、聖霊の純粋な天主への愛の火で燃立っていました。

ですから、もしも私たちが聖霊を受けよう、聖霊からの恵みを受けよう、天主への愛に満たされようと思うのでしたらば、マリア様へと行かなければなりません。弟子たちもそうでした、使徒たちがそうでした。私たちも全く同じです。イエズス様が来られた時にはマリア様を通して来られたように、聖霊が弟子たちに与えられるにはマリア様を通して来たように、私たちももしもイエズス様と聖霊を受けようとするならば、マリア様を通さなければ誰も受ける事ができません。

マリア様はファチマで言いました。6月13日の事でした、今から100年前です、「私はあなたたちを決して見捨てません。私の汚れなき御心は天国への道であり、あなたたちの避難所となります。」

マリア様の汚れなき御心には、全ての善徳と聖徳と美徳に飾られていますから、私たちの天国に行く道すがらとなります。また私たちの手を引き入れて、引き取って引っ張って天国へと連れて行くガイドです、道案内者です。

マリア様は私たちに、このファチマの子供たちの模範を通しても言います、マリア様ご自身の模範を通しても言います、「この世において一番大切なのは、一体何を成し遂げたのではない。金メダルを取ったとか、或いはお金をどれほど貯めたとか、或いはどれほど素晴らしいノーベル賞を取ったとか、或いは大発見を発明したとか、そういうどんな何を成し遂げた、とかというのはあまり関係ない。私たちの人生の最後には、一体私たちがどうやった、どのように生活を送ったのかによって裁かれる」と教えています。

私たちが天主への愛を込めて、イエズス・キリストを愛するが為にこの人生を送ったのか、送らなかったのか。私たちがイエズス様を愛するが為に、この朝ごはんを食べたのか、食べなかったのか。或いはマリア様のように、イエズス様をお慰めする為にお掃除をしたのか、しなかったのか。罪人の回心の為にこの苦しみを捧げたのか、捧げなかったのかによって、この人生の価値が全く変わる。

マリア様は聖霊に満たされて、全てイエズス様を愛するが為に、罪人の回心の為に捧げてきました。そして私たちにも「同じようにしなさい」と招いておられます。


では、私たちは遷善の決心を取る事に致しましょう。聖霊の降臨の準備の為に、一番の最高の準備のやり方は、マリア様の汚れなき御心に入る事です。汚れなき御心、マリア様の汚れなき御心のようにする事です。マリア様の汚れなき御心を避難所とする事、この汚れなき御心のようにする事です。

でも私たちの心はあまりにもこの世のものでいっぱいですので、ぜひマリア様に、私たちの心とマリア様の御心を交換してもらえるようにお願い致しましょう。そしてマリア様の心を私たちに下さい、そのマリア様の心で聖霊を受ける事ができますように、私たちも聖霊に満たされる事ができますように、そしてマリア様の御心を以って、私たちの全ての人生の出来事を、仕事を、義務を、或いは日常の辛い事や悲しい事や、お祈りや犠牲も、イエズス様を愛するが為に、罪人の回心の為に、多くの霊魂が天国に行く事ができる為に、そしてイエズス様のお望みのようにマリア様の御心を慰める為に、お捧げする事ができるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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