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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

十字架を金銀・宝石で飾った理由とは、その起源とは?

2017年04月22日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年4月1日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年4月1日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心教会にようこそ。

今日は2017年4月1日、四旬節の第4主日の後の土曜日で、4月の初土曜日のミサをしています。このミサは聖母の汚れなき御心の随意ミサです。

このミサが終わりましたら、感謝の祈りの後の公教要理で、福音書のお話の続きをしたいと思っています。今日は聖ヨハネの福音書という、4つの福音書の最後の福音について、一体誰が書いたのか、どういう人だったのか、どこで生まれて、どうやって亡くなって、いつ頃、誰の為に書いたのかという事を皆さんにお話したいと持っています。もしよろしかったらいらして下さい。


「私を見出す者は命を見出し、そして主から救いを汲み取るだろう。」

聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は四旬節の、特にこれから明日から御受難節という復活祭の前の特別の2週間に入ろうとしています。

それでこのミサが終わると、典礼によると十字架には紫の布が被せられて、それは聖金曜日の十字架の礼拝式という時までずっと被されたままでいます。それから御像も、ステンドグラスはそうではないのですけれども、御像も紫の布が被せられます。イエズス様の御像とかマリア様とか、天使、ヨゼフ様、ありとあらゆる御像は紫の布をすっぽりと被せられて、これは復活祭の徹夜のミサの時に、天使の歌ったグロリアの声が聞こえるまで、そのまま私たちの目から姿を消します。

一体何故そんな事をするのだろうか?一体教会は私たちにどんな事を望んでいるのだろうか?

そしてその教会の心の中に、その望みを果たす為に、一体どんな手段が、どうしたら良いのだろうか?実はその一番良いのが、実はマリア様の汚れなき御心に対する信心だ、という事を黙想して、

では今日は遷善の決心を立てる事に致しましょう。


まず、「一体何で十字架に紫の布を被せるんだろう?」

実はこれは、「教会がこれから喪に服す」という意味があります。イエズス様の御受難を思って、イエズス様が、イエズス・キリスト様が私たちの為にどれほど不当な扱いを受けて、苦しまれて、十字架を担わされて、釘付けにせられて、そして全く罪が無かったにもかかわらず極悪人として、私たちの罪の償いの為に十字架の上で命をお捧げになった、御自分の御血潮を全て流された、私たちの罪の償いの為だった、その喪に服す為なのです。

明日のミサからちょうど、お葬式のミサと同じように葬儀ミサと同じように、入祭誦の時にはグロリアを省略したり、やはりお葬式のミサのように、司祭が手を洗う“Lavabo”の時にもグロリアが無かったり、或いは階段祈祷の詩篇“Judica me”というものがやはりお葬式のミサのように無かったり、何かお葬式のミサに与るような感じで、ミサが明日から進められます。

そればかりでなく、教会は私たちに喪服を着るかのように、十字架と諸聖人の像には紫の布を被せます。諸聖人の像に紫の布を被せて喪に服すというのは、「あぁ、きっとそれは諸聖人の事ではなくて、イエズス様の事を考えるようにという事なんだなぁ」という事が分かりますが、では一体なぜ十字架にさえも、これから黙想しようとするその十字架にさえも布を被せてしまうのでしょうか?

実はそれは深いわけがあります。何故かというと、教会はその古代から、「十字架というのは勝利の手段である、勝利のしるしである。悪魔に対する勝利、この世に対する勝利、そして自分自身に対する勝利のしるしである。栄光のしるしである」という事を深く自覚してきました。「私たちがもしも贖われた、救いを得たとしたら、この十字架によってのみ、これを通してのみであった。」どれほど十字架というものが大切なのかという事を深く知っていました。

そこで教会は、その十字架を非常に大切にして、金や銀や或いはプラチナとか、ものすごい貴重な貴金属で十字架を作ったり、純金の十字架に更にそれに貴重な宝石、とても高価な石や、その他極めて高価な飾りを装飾を付けて、もうその光眩く輝かしい勝利のしるしとして十字架を飾っていました。中にはもうこれ以上考えられないというような宝石、貴重な物が、ダイヤモンド、ルビー、サファイアはもちろん、もう想像を絶するような宝が十字架の上に散りばめられて、それに深く組み込まれていました。





王のしるしとして相応しいのは、黄金と金と銀とそして宝石でした。そのきれいに飾られた黄金のしるしである十字架を、教会は今からその栄光のしるしを隠して、イエズス様の御受難に集中しよう、諸聖人や天使たちの姿を隠して、イエズス様の私たちに対する苦しみを今から深く黙想しよう、という事を意図して、私たちを招く為に、御受難へと招く為に、十字架にこうやって覆いをしようと考えたのでした。

今日はですから、今イエズス様やマリア様、或いは十字架の輝きを見る最後の日なのです。

イエズス様は御父から委ねられた霊魂たちを救う為に、天国に導く為に、天国の栄光を与える為に、これから戦いに、苦しみの中に入ろうとしています。イエズス様の唯一の動機は、私たちを愛する、私たちを救いたい、その為であればどんな犠牲もどんな苦しみも厭わない、ただそれだけでした。

典礼によれば、四旬節には3つの段階があります。

第1の、四旬節の第1主日は、イエズス様が砂漠で悪魔と戦うのですけれども、悪魔から誘惑を受けて、それを退けます。防御の時です。

第3主日には、イエズス様は悪魔と比べたら、「悪魔は強いかもしれないけれども、私は更に強い。より強い者がこの攻撃に来た。霊魂を奪いに来た。」

そして来週、この枝の主日では、イエズス様は私たちの霊魂を救う為にやって来た王として、本当の征服者としてこの世の勝利者として、枝の主日を祝います。

そして更にその後に復活祭が待っています。

こうする事によって教会は、イエズス様の本当のこの御受難の意味は、霊魂を勝ち取る為の勝利者としての姿を見せようとしています。

教会はそうする事によって私たちに何を求めているかというと、ただ2000年前に、「あぁ、イエズス・キリスト様といわれる救い主が私たちの為に、あぁ十字架の上に架かって血を流された。そういう話があった、めでたしめでたし」ではなくて、「実はイエズス・キリスト様が永遠の天主であり、時と時間を超えたこの世の創造主であり、この全世界を創った真の天主、この人となったこの天主が今、2017年4月1日、今私たちの為にその苦しみを受けて、それをミサという形で私たちの為に捧げて下さっている。

今このイエズス様の苦しみは、神秘体、イエズス様の神秘体、カトリック教会として捧げられている。

そして私たちもその一部であって、その典礼を通してミサを通して、私たちはイエズス様の苦しみに参与している、勝利に参与する」という事を表そうとしています。

もしも四旬節の時に私たちが大小斎を捧げるとしたら、それはイエズス様が仰ったその言葉に倣う為です。「花婿が取り去られた時には、花嫁は断食をするだろう、その時は断食をするだろう。」

花婿が取り去られる時が今来ようとしています。ですから、「四旬節には断食をしよう」と教会は決心しました。

では、そのイエズス・キリスト様のその十字架に参与するというのは、私たちがキリストの神秘体として苦しみに与って、その勝利にも与るというのはどうやってなされるのでしょうか?

それは2つの方法があります。

1つは、成聖の恩寵によって、イエズス・キリスト様の神秘体の一部となる事です。これは洗礼によってなされます。洗礼を受ける事によって私たちは、キリストの神秘体の一部となるからです。ですから教会はカトリック教会は、この四旬節の時に特に洗礼志願者の方々の為にお祈りを捧げて、その洗礼志願者の方々がより良い準備をして、復活の徹夜祭の時に洗礼式を受けて、キリストの神秘体の一部となり、イエズス様の御苦しみに与り、そして勝利に与る事ができるようにと準備しました。

また第2のより深い一致の手段としては、御聖体による一致があります。御聖体というのは、イエズス・キリスト様の御体を、本当の体を、マリア様の御胎内に宿ったその同じイエズス・キリスト様の御体を、私たちが御聖体によって拝領する事です。イエズス様と一つの体となる事です。この御聖体によって私たちはますます、イエズス様の御苦難と復活に与る事になります。

教会は公の悔悛者の為に、彼らが聖木曜日にもう一度罪を赦されて、御聖体拝領をする事ができるように準備をしてきました。こうする事によってイエズス様の御受難は、ただ単に2000年前のただのお話ではなく、歴史的な事実としてだけでなく、現在、私たちと一緒に、私たちもそれに参与する、それと一つとなって、それを生きる者となるのです。

ですから教会は、イエズス様の苦しみを、「幸せな御受難」「これによって喜びが私たちの世界に入って来たものだ」として、御受難を却って喜ぼうとするのです。私たちの救いと贖いの手段として、これを非常に喜んで記念をします。勝利のしるし、栄光のしるしとして、宝石を散りばめて、これを「最も大切なものだ」、これを「厭い嫌うものではなくて、もうこんなものは嫌だ、これから避けようとするのではなくて、却ってこれをますます愛そう」と、これを「大切にしよう」と、全ての神経を集中させてこれを飾ろうとしました。

これが教会の信心であって、愛の姿であって、そしてこの宝石を散りばめられた十字架の起源でした。「この十字架に私たちは与るのだ。栄光の十字架に与るのだ。救いの手段の一部となりたい」と教会はいつも思っていました。

ですから聖パウロの言葉が私たちの教会にはこだましています、「私はキリスト共に十字架に付けられた。もはや生きるのは私ではなく、キリストが私において生きる。天主の御子は人の子は、私を愛して十字架に自分を、私の為に十字架に付けられた、その身を渡された。イエズス・キリストと私は一つとなった。その栄光の十字架と私は一つである」と思っていました。

では、私たちはどうやったらその十字架の神秘の中に深く入って、教会と一緒にイエズス様の御受難を祝う事ができるでしょうか?喜びをもってその御受難を黙想する事ができるでしょうか?

ともすると私たちは、「十字架」というのは「嫌だ」、「辛い」、「何か避けたい」、辛い事があると、もうすぐにもう何とかしてこれから避けて、これを怒ったり或いはしてしまう。どうしたら良いのでしょうか。

マリア様は私たちにこう言います、「私を見出す者は命を見出し、そして主から救いを汲み取る。」イエズス様も預言者の口を通して言うではないですか、「もしも渇く者があったら、私から飲め。」

私たちはですから、この御受難の中に入る為に、マリア様に行く事に致しましょう、汚れなき御心に行く事に致しましょう。何故かというと、マリア様こそ教会の深い精神をよく知っていたからです。十字架の意味をよく知っていたからです。苦しみの価値をよく知っていたからです。

「十字架というのは私たちにとって宝石であって、とても貴重な宝物であって、十字架にこそ命があって、救いがあって、贖いがあって、これを通してのみ私たちは本当の命と、本当の幸せと、本当の価値のある宝を得る事ができる」とよくご存知だったからです。

もしも、私たちが洗礼のお恵みを受けてイエズス・キリストの神秘体の一部となり、イエズス様の御体を御聖体として受ける事ができるとしたら、これはますます十字架の宝を得る為です。

ところでこの事を一番良くやったのは、マリア様の汚れなき御心ではなかったでしょうか。何故かというと、私たちは洗礼を受けて三位一体聖霊の御恵みを受けますけれども、聖霊が私たちの霊魂に入りますけれども、三位一体が私たちに住まいますけれども、マリア様はその最初の御受胎の瞬間から、聖霊の神殿となり、聖霊といつも一致していました。マリア様こそ完壁な、教会のキリストの神秘体の一部として聖霊と一致していた御方だからです。

そればかりか、マリア様はイエズス様を御体の中に御胎内に宿した方です。私たちは司祭の手から御聖体を受けますけれども、マリア様は天使の言葉を受けて、御胎内の中にイエズス様を宿されました。イエズス様を宿された時のマリア様の愛と信心はどれほどだった事でしょうか。どれほどの礼拝をもって、イエズス様を御胎内に宿された事でしょうか。

それにひきかえ私たちは、御聖体拝領する時、どれほどイエズス様の事を礼拝し、感謝し、イエズス様に私たちの苦しみや生涯を、日常の務めをいけにえとして捧げているでしょうか。それとも気を散らしたり、雑念だったり、或いは「お昼に何を食べようか」とか、或いは「これから何をしようか」などと考えて、イエズス様の事を全く忘れていた事がどれほど多くあった事でしょうか。

これを考えると、教会の中に精神に深く入る為には、マリア様の御心に学ぶのが一番だと分かります。どうぞこの今日初土の信心の1とつして、「マリア様の汚れなき御心に対して冒される罪を償う為に御聖体拝領をする」というのがあります。マリア様と共に、マリア様の精神で、初土の信心をなさって下さい。そうする事によって私たちはますます、教会の典礼の精神の中に深く入る事ができます。罪の償いと、十字架の価値の意味が深く分かるようになります。

では今日は、マリア様の汚れなき御心の御助けによって、この聖週間、御受難節の中に深く入る事ができるようにお祈り致しましょう。

「私を見出す者は命を見出し、主から救いを汲み取る事だろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。

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