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第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ (続き12)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き12)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ(続き12)


  (e)内的生活はまた、同じ内的生活を他に生むのであるから、その霊魂たちに及ぼす影響は深く、そして長続きがする (3/3)

 最後に、もう一つのエピソードを語って、本章を終わることにする。それは、次のような使徒も、世の中にはいるのだから、かれらの真相を解剖するのに役立つからである。
 人びとを、イエズス・キリストのみもとに引きよせよう、引きよせて、これをイエズス・キリストの使徒にしようと、と少なくとも表面では活躍している使徒がいる。だが、実際において、はたしてかれらは人びとを、イエズス・キリストのみもとに、引きよせているだろうか。――いや、そうではないのである。

 かれらは、自分たちへの、人びとの自然の敬慕の念から、また、そのたずさわっている事業への、人びとの自然の感激から、ただそこからだけ、人びとのあいだに、いわゆる感動をひきおこし、その結果、世の人びとを、イエズス・キリストのみもとに引きよせるかわりに、じつは自分自身のもとに、引きよせている。引きよせられている人びとの方ではどうかというに、かれらは、こんなにすばらしい、こんなにりっぱな使徒と交際するのが、たまらなくうれしい、こういうおかたから、いろいろ面倒をみていただくのは、このうえない名誉である、と思っている。それで、かれらの門前には市をなす、というあんばい。かれらは競って、とりわけ、かれらにへつらうために、どんなに苦しい信心業でも、もしそれが信心の影さえやどしておれば、平気で実行している。

 まえおきが、ずいぶん長くなったが、カトリック要理の教授に従事する一女子修道会があった。そこの指導司祭は、聖人のほまれ高い修道司祭で、その伝記が最近出版されている。
 ある日、聖人の司祭は、その女子修道会のある院長に、こんなことをいいだしたものである。
 「院長さま、わたしの考えですと、X童貞さまは少なくとも一年、カトリック要理を教えるのを、おやめになったらいいと思うんですが」
« Ma mère, je suis d'avis que la Soeur X... cesse pendant un an au moins de faire le catéchisme.

 「でも、神父様は、ごぞんじないんでございますか。X童貞さまは、こちらでは、いちばんおできになる方なんでございますのよ。子供たちは、X童貞さまを慕って、町の郊外のあちらからもこちらからも、ぞろぞろやってくるんでございますのよ。ですから、この童貞さまを、カトリック要理のクラスからはずしてごらんなさい。子供たちの大部分は、もうこなくなるに決まってます」

 「わたしはじっとあの童貞さんの教え方をみていたんです。なるほど、彼女は子供たちの心を、魅了してはいるようです。ですが、その方法が、あまり人間的なんです。修練期を、もう一か年、あらたにやりなおしましたら、そのときは内的生活にも、もっとよく訓練されましょうし、奮発の点でも、自分の才能をよく利用する点でも、もっと賢くなっているはずなんですから、きっと自分の霊魂も、子供たちの霊魂も、りっぱに聖化することができましょう。
 しかし、今はダメです。彼女はかえって、聖主のじゃまをしているんです。初聖体の準備をさせている子供たちでしょう。この子供たちの上に、じかにお働きかけになろうとしていられる聖主にとって、彼女はただ邪魔になるだけです。もちろん、わたしの要求が、院長さまのお気に召さないことは、百も承知でおります。ですから、ここに妥協策を講じたいと思います。
 わたしの知っている童貞さんに、Nという方がおります。ひじょうに内的な霊魂ですが、たいした才能はもっておりません。総長さまにお願いして、Nさんをしばらく、お貸りして頂けませんか。Xさんは、カトリック要理の初めに、十五分間だけ、お顔をだすことにいたしましょう。あなたは、子供たちがこなくなることを、心配していらっしゃるんですから、そういたしましたら、ご心配もなくなることでしょう。それから、Xさんはだんだんに、お顔をだすことが少なくなって、ついには完全にお姿を消すことにいたしましょう。
 そういたしましたら、きっと子供たちは、もっとよく祈るようになるでしょう。もっと信心ぶかく、聖歌をうたうようになるでしょう。あなたもそれに、お気づきになるにちがいない。
 子供たちは、かれらなりに、潜心するようになる、おとなしく、よく従うようになる。つまり、もっと超自然的な性格を、心にも顔にも、あらわすようになる。――これですよ、院長さま、使徒的事業のバロメーターは!」


 十五日がたって、N童貞は一人で、カトリック要理の授業を受け持つようになった。
 しかし、院長の心配に反して、子供たちの数は、どんどんふえる一方である。
 院長は、自身で、この事実を確認することができた。
 じっさい、カトリック要理を教えているのは、もはや彼女ではなくて、イエズスご自身、彼女をとおして、教えておられたのだ。
 Nさんは、そのなんともいえないまなざしで、その謙遜で柔和で、いかにも親切な態度で、その十字架のしるしの仕方で、その天上的な声音(こわね)で、イエズスご自身を、目にみえるように、子供たちの前にあらわしていたのである。
 Xさんは、学者のように、深く広く、説明する。そして、なにかあまり抽象的で、子供たちの好かない問題にぶつかっても、これを興味しんしんたるものにするすべを心得ていた。
 だがしかし、Nさんは、もっとりっぱなことができた。むろん、彼女は説明の準備をするため、ハッキリこれを子供たちにわからせるため、なにひとつ怠らなかったのだけれど、彼女がカトリック要理の授業に、かほど成功した秘訣――そして、授業のあいだ特に目立っていたものは、なんといっても、超自然的な“感動”だった。聖霊だけが与えうる、この超自然的な感動によってこそ、人びとの霊魂は、ほんとうにイエズスに触れるのだ。
 探検者の面白い話をするとき、または戦争のたいへん興味ふかい場面を語るとき、人はよく口からツバキをとばしてしゃべりまくったり、目をしろくろさせたり、あいてを魅了するようなジェスチュアを、おもしろおかしくやるものだが、N童貞がカトリック要理を教えるときには、そんなものはすこしもなかった。

 子供たちは、みんな心をしずめて、よく注意している。
 あたりはしーんとして、物音ひとつ立てる者もない。ここは、いったい、教場か。それとも聖堂か。子供たちが、気を散らさないように、たいくつしないようにと、なにも人間的な工夫はない。

 このような授業には、どのような神秘的な影響力が漂っているのだろうか?間違いはない。イエズスの影響力が、直接にはたらいていたのだ。なぜなら、カトリック要理の課業をさずける内的な霊魂は、天主なる演奏家の指でかなでられる、立て琴だからである。人間の技術が、どんなに優秀であっても、とうていイエズスのお働きには、くらべられない。

Quelle influence mystérieuse plane donc sur cette assistance? Ne nous y trompons pas, c'est celle de Jésus qui s'exerce directement. Car une âme intérieure qui développe les leçons de catéchisme, c'est une lyre qui ne résonne que sous les doigts de l'Artiste divin. Et aucun art humain, si merveilleux soit-il, n'est comparable à l'action de Jésus.

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