Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「天にまします」の祈りの深い意味

2018年03月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

私たちは、四旬節を通して、この世のいけにえに上ろうとされるイエズス様の至聖なる聖心を心としてきました。

御受難節となり、より深く潜心して、イエズス様のご受難にあずかるために、謙遜に自分をさげすみ、そして天主への信頼を込めて、祈るために、

トリエント公会議による公教要理の「主祷文」についての説明をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第12章
主祷文  天に在す我らの父よ

1.主イエズス・キリストが私たちにお残しになったこのキリスト教的祈祷文は、その構成上、私たちの祈りと願いとを言い表す前に、ある種の序文とも言うべき文句を述べるようになっています。しかるに、この「序文」に含まれる一つ一つの言葉は、敬虔な心をもって天主に近づく者に、よりいっそうの信頼をもってそのみ前に出るよう促すものです。司牧者の義務は、信徒がすすんで祈りに励み、また、当の祈りにおいて彼らが父なる天主に語りかけるものであることを悟るよう、これらの言葉を別々に、わかりやすく説明することです。
 さて、当の序文は、言葉上はたいへん短いですが、しかしその言い表す内容を考えると、きわめて重要かつ神秘に満ちたものです。

§ I. 父よ

2.さて、天主の命じ定められたところに従い、この祈祷文で私たちが最初に唱える言葉は「父」です。
なぜなら私たちの救い主は、この神的な祈りを「創造主」あるいは「主」といった、より荘厳な言葉で始めることがおできになりましたが、私たちの心に畏怖(いふ)の念を生じ得るこれらの語を用いるのをよしとされませんでした。しかるに、祈る者、天主に何かを願う者に、愛と信頼の念を芽生えさせる、この「父」という言葉をお選びになりました。事実、仁慈と寛容の意味合いに富んだ、この「父」という言葉よりも快く甘美なものがあるでしょうか。

3.この名称が、天主にきわめてよく当てはまるものであることを信徒に示すための理由は、天主による万物の創造、統治、贖いから容易にくみ取ることができます。
 天主が人間をご自分の似像(にすがた)に似せてお造りになり、また地上に生きる他のいかなる被造物にも、この特権をお与えにならなかったという、人類に与えられたこの特別の恵みのゆえに、聖書は天主を信徒、異教徒を問わず、全ての人の父と呼んでいます。
 天主による天地万物の統治からも、天主がいかに父と呼ばれるにふさわしい方であるかを推し量ることができます。実際天主は、人々の利便を始終はからい、特別な配慮と御摂理をとおして、真に父らしい慈愛を私たちにお示しになります。

4.しかるに、人々に対する父なる天主のご配慮をよりよく示すために、人々の守護にあたる天使らについて、ここで一言述べることが適当であると思われます。

5.人類全体を保護し、またその一人々々を助け、種々の危害から守るというこの責務が天使たちに与えられたのは、他ならぬ天主の御摂理によるものです。敵が潜む危険な道を子に旅させる親は、危難における助け手となるべき守護者をつけるものです。同様に、天の祖国に至るべく私たちの歩むこの道程において、天の御父は私たち一人々々に天使をおつけになりました。それは、これら天使の助力と不断なる保護の下で、私たちが敵の隠した罠を避け、私たちに降りかかる恐るべき攻撃を打ち払うため、またその導きの下に正道を歩み、敵が道中に備えた惑わしに惹かれて天に至る道からそれることのないためにです。

6.さて、天主の人間に対する配慮かつ特別な御摂理は、本性上、両者の中間に在る天使らに、その具体的適用が使命として課されているのですが、これがいかに人々にとって有益なものであるかは、聖書中に見出されるおびただしい数の例が如実に示しています。かかる章句において、天使らが人々の目前で驚くべき業を成し遂げたことが記されていますが、これをとおして、守護の天使が目に見えない仕方で、数知れぬ同様の所業を、私たちの利善と救いのために為すものであることが分かります。

7.かくして、天主がトビアに旅の道連れかつ導き手としてお与えになった大天使ラファエルは、彼を首尾よく目的地へと至らせ、しかる後、無事に郷里へと帰還させたのでした。道中トビアが大魚に食べられそうになった際、この窮地から救い、魚の肝と胆汁、心臓とが含む薬効を教えたのは、他ならぬこのラファエルです。また同じラファエルは、悪魔を追い払い、その力を封じ込めてトビアに害を為すのを妨げました。さらには、婚姻の、天主の法に適った真の則(のり)を青年トビアに教え、盲目になっていた父を癒したのもラファエルでした。1

8.使徒らの長、聖ペトロを監獄から救い出したかの天使も、天使の守護ならびに配慮がもたらす驚嘆すべき実りを信徒に示すための豊かな題材となります。司牧者は、当の天使が牢獄を照らし2、ペトロのわき腹にふれて起こし、鎖を解き、足かせを砕き、立ち上がってサンダルを履き、衣をまとって自らの後に従うよう命じたこと、またこの天使が警護の兵士らの間を何の妨げもなく通り過ぎ、牢獄の扉を開き、安全な場所に至らせたことを信徒に思い起こさせるべきです。

9.先に述べたとおり、この種の例は聖書中に散在しており、天主が天使らの仲介と執り次ぎによって人々にもたらされる善益が、いかに大きな効力を有するものであるかを浮き彫りにしています。事実、天主が私たちに天使らをお遣わしになるのは、個別の限られた物事に関してのみならず、私たちの生まれたその時から、たえず私たちを守るためにおつけになるのであり、また全ての人は、その救霊のために尽力する守護の天使の保護を各々受けるのです。

10.当の教えを入念に説くことによって、聴衆の心は奮い立ち、父なる天主が自分たちの上に注がれるご配慮とみ摂理とを認め、敬うよう促されるでしょう3。

11.ここで司牧者は、人類に対する天主の仁慈の、あふれるほど豊かな宝蔵について、ことさら強調して教え諭すべきです。なぜなら、人類ならびに罪の元親であるアダムに始まって今日に至るまで、無数の罪悪と醜行とに耐えてこられた天主は、これにも関わらず、私たち人間に対する愛の御心をお失われにならず、特別の配慮をお注ぎになり続けられるからです。

12.天主が人々のことをお忘れになると考えるのは、愚昧(ぐまい)の極みであり、天主に対するこの上ない侮辱を為すこととなります。
 事実、天主は、天の助力から見放されたと思いなしたイスラエルの民に対し、ご自分を冒瀆するものであるとして、御憤りをお示しになりました。これは出エジプト記中、「彼らは、『はたして天主は私たちのうちにおられるのか?』と言って主を試みた4」、またエゼキエルの書において、「当の民が『主は私たちを見ておられない。主は私たちを見放され、国を捨ておかれた』、と言ったので、天主はお憤りになった5」とあるとおりです。したがって、聖書中のこれらの章句の権威によって、天主が人々のことをお忘れになり得るという、甚だ厭(いと)うべき見解を信徒がよもや抱くことのないよう図らねばなりません。イザヤ書でも、イスラエルの民が天主に対する不平をもらしたこと、また天主が彼らの愚かな不平を、譬(たと)えをもってお退けになったことが述べられています。すなわち、「シオンは言った、『主は私を見捨て、私を忘れられた』と。女が、その乳飲み子を、母がその懐の子を忘れようか。よし忘れるものがあっても、私はおまえを忘れない。見よ、私はおまえを手の平に刻みつけた。6」とあるとおりです。

13.上記の引用箇所は、この点を明示してあまりありますが、天主が片時も人間のことをお忘れにならず、たゆまず慈父の愛をお示しになることを信徒に深く了解させるために、主任司祭は、皆に周知の人祖の例を引くべきです。人祖が天主の掟を軽んじて、これを破ったとき、たしかに天主は彼をきわめて厳しくとがめ、次の言葉をもって断罪されました。「地はおまえのゆえに呪われよ!おまえは苦労して地から糧を得るだろう、命のつづく限り。地はおまえのために茨とあざみを生やし、おまえは地の草を食べねばならない。7」
しかる後、天主は両人を楽園から追放し、そこに戻る望みを絶やすべく、火のケルビムを楽園の扉の前に置かれ、天使は「炎を放つ剣をたゆまずかざして」これを守りました。それのみならず、天主は、彼らがご自分に対して為した侮辱の報いとして、人祖に諸々の内的および外的罰をお課しになりました。これら全てのことを見ると、人間の命運はもはや尽きたと思われないでしょうか。また、人類は天に見放されたのみならず、ありとあらゆる災厄(さいやく)にさらされたものと、私たちの目に映らないでしょうか。しかるに、かくも多くの天主の憤りと報復の印の中に、最初の人間に対する天主の慈愛の光明が現れました。「主なる天主は、アダムとその妻とのために、皮衣をつくり、彼らにお着せになった8」のです。このエピソードは、天主が人々をお見捨てになることは、決してないことを如実に示しています。

14.天主の人間に対する愛が、これの犯す罪業のために尽きてしまうことは、およそあり得ないという事実を、ダビドは次の言葉で表しています。「天主は、よもや怒ってみ心を閉ざされ、あわれみをお忘れになるだろうか。9」また、預言者ハバククは、天主にこう語りかけて同じ考えを示しています。「お怒りになるときも、御あわれみを思い起こしてください。10」同じくミカヤは、「あなたのように咎(とが)を除き、あなたの世継ぎである民の、残りの者の罪をお見過ごしになる、そんな天主がふたりとあるでしょうか。天主は怒りをもちつづけず、あわれむことを喜びとされる。11」

15.実際、私たちが天主のご保護を失い、万事休したと思うまさにそのときこそ、天主はかぎりない仁慈の御心をもって、私たちを探し求め、ご配慮をお尽くしになるのです。なぜなら、天主はそのお怒りの中にも、正義の剣を差し控え、御あわれみの尽きせぬ宝を注ぐのをお止めにならないからです。

16.このように、万物の創造と統治とは、天主が人類を特筆すべき仕方で愛され、お守りになることを如実に示すものです。しかるに、人間の贖いの御業は、両者12の間にあって、かくも際立った輝きを放つのであり、きわみなく慈愛深き父なる天主が私たちに施されるご厚意の、まさに最たるものです。

17.それゆえ主任司祭は、自らの霊的な子らである信徒に、天主の私たちに対するこの比類なき愛を倦(う)むことなく説き、自分たちが贖われ、驚嘆すべき仕方で天主の子となったことを教え諭すべきです。実に聖ヨハネが述べるとおり、天主は彼らにご自分の子となる権能を授け、かくして彼らは天主から生まれたからです。13
贖いの第一の保証かつ記念である洗礼が、「再生の秘蹟」と呼ばれるのも、まさにこのために他なりません。洗礼によってこそ、私たちは天主の子として生まれるからです。主ご自身、「霊から生まれたものは霊であり」、また「新たに生まれなければならない14」と述べておられるとおりです。同様に、使徒聖ペトロも「あなたたち[信徒]が新たに生まれたのは、朽ちる種によるのではなく、永遠に生きる天主のみことばの朽ちない種による15」ものであることを教えています。

18.当の贖いのおかげで私たちは聖霊を受け、また天主の恩寵を受けるに値する者となったのです。この賜によって私たちは天主の養子となるのですが、これは使徒パウロがローマ人への手紙で述べていることに他なりません。すなわち、「あなたたちは、再び恐れにおちいるために奴隷の霊を受けたのではなく、養子としての霊を受けた」のであり、「これによって私たちは『アッバ、父よ』と叫ぶ16」のです。天主の養子とされる、というこの驚くべき奥義の含む力と効果とを使徒ヨハネは、「御父がどれほどの私たちにお注ぎになったかを考えよ。私たちは天主のこと呼ばれ、また実にそのとおりだからである17」と述べて、示しています。

19.以上のことを説明した後、司牧者は、かくも慈愛に満ちた父なる天主に対して当然示すべき態度を信徒に教え諭さなければなりません。すなわち、彼らが自らの創造者、統治者、かつ贖い主である方に、どれほど強い愛、敬虔、従順ならびに崇敬の念を示し、またどれほど大きな希望と信頼とをもってその御名を呼び、これに祈るべきかを了解するよう尽力しなければなりません。

20.しかるに、順境ないしは思うように生活上のことがらが首尾よく進むことのみをもって、天主が私たちに対する愛をお保ちになることの証とし、反対に逆境や苦難が降りかかる際には、それを天主が私たちに対して敵対心を抱き、さらにはその御心を私たちからことごとく遠ざけられた印と見なす者がいるならば、かかる無知および誤謬を氷解するために、天主の御手が私たちを打つとき、主は敵意をもってこれをなさるのではおよそなく、かえって癒すためにこそ私たちの身を打たれること、また天主からもたらされた傷は薬に他ならないことを教示すべきです。

21.実際、天主が罪人を懲らしめられるのは、かかる懲罰によってこれをより善い者とし、現世における訓戒をもって永遠の滅びから救うために他なりません。たしかに「主は私たちの罪に、鞭をもって、また私たちの悪に、杖をもって訪れになる」としても、「私たちからその御あわれみを取り去られることはない 18」からです。

22.したがって、信徒がこの種の懲罰の中に父なる天主の仁愛を認め、かつ忍耐心の比類なき模範であるヨブの言葉を心にとどめ、口で唱えるよう励まさねばなりません。すなわち「主は懲らしめた後に助け起こされ、むち打ったその同じ手で癒される19」のですが、これは預言者エレミアが、イスラエルの民の名において次のように述べていることと相通ずるものです。 「あなたは私を、あたかも馴らされていない子牛のように懲らしめられ、しつけられました。私を立ち戻らせてください。そうすれば私は立ち戻ります。あなたは私の天主かつ主なのですから。20」

23.信徒の側においては、たとえどのような難儀をこうむったとしても、また、いかなる災厄に見舞われようとも、よもや天主がこれをご承知にならないと思いなすことのないよう、くれぐれも注意しなければなりません。主ご自身が、「あなたたちの髪の毛一本さえ失われることはない21」、と確証しておられるからです。かえって、黙示録中の、「私は愛する者を責めて罰する22」という天主のみ言葉をもって自らを慰め、また使徒パウロがヘブライ人への手紙で、当地の信徒を激励すべく記した次の章句を乙のが身に当てはめて、心を落ち着けるべきです。「我が子よ,主の矯正を軽んじることなく、また主に咎(とが)められてくじけてはならない。主は愛する者を懲(こ)らしめ、受け入れる子をすべてむち打たれるからである。あなたたちが試練を受けるのは、懲らしめのためであって、天主はあなたたちをこのように扱われる。もし懲らしめを受けなければ、あなたたちは私生児であって、真の子ではない。また、あなたたちを懲らしめる肉体の父親を敬っていたのなら、霊の父には、命を受けるために、なおさら服従しなければならない。23」

§ II. 我らの父よ

24.私たちが天主に各々祈るとき、私たちは天主を「我らの父」と呼ぶのですが、これをとおして私たちは、天主の養子たる特典および権利のゆえに、全ての信徒は兄弟であり、また兄弟として愛し合うべきことを了解します。主は、「あなたたちは皆兄弟であり、またあなたたちの父はただ一人、天におられる御父だけである24」と仰せられました。又、使徒たちも書簡中で、信徒皆を兄弟の名で呼んでいます。

25.天主の養子たる身分から帰結するもう一つの結果は、信徒が兄弟的愛のきずなで互いに結ばれるだけでなく、天主の独り子が人となられたために、信徒は又、この同じキリストの兄弟と呼ばれ、事実兄弟であるということです。なぜなら、ヘブライ人への手紙において、使徒パウロは天主の御子について、「[イエズスは]彼らを兄弟と呼んで恥じられず、『私は御名を兄弟たちに告げよう』と仰せられた25」、と述べていますが、この引用文の後半は、主イエズス・キリストのはるか以前に、このことを予見したダビドが、詩編において述べている言葉です26。又、主ご自身も、聖なる婦人たちに、「行って私の兄弟たちに、ガリラヤに行くよう告げなさい。そこで私に会えるであろう27」と述べておられます。

26.皆に周知のとおり、主がこの言葉を述べられたのは、そのご復活後、すなわち不死性をかち得られた後のことでしたが、これは当の兄弟としての絆が、ご復活とご昇天によって解消してしまったと、誰も考ることのないためにです。ご復活が、キリストの私たちとの一致と兄弟的愛[の絆]とを消失させてしまうということが、いかに事実からほど遠いかは、その御陵(みいつ)と御栄えの玉座の高みから、全ての時代の全ての人々を裁かれるとき、信徒の中で最も小さい者をも、「兄弟」の名でお呼びになるということから、容易に推し量ることができます28。

27.実際、「[キリストと]共に世嗣(よつぎ)である29」と言われる私たちが、どうしてキリストの兄弟たり得ないでしょうか。キリストこそ、天主の「長子かつ万物の世嗣とされた者30」ですが、一方私たちはキリストに次いで生み出された者であり、天の賜の度合い、および聖霊の使役者かつ協働者として働くことをとおして示した愛徳の度合いに応じて、キリストと共通の遺産に与るのです。主キリストは、私たちを美徳と善業の実践に駆り立て、私たちの心を愛熱の火で燃やされます。その恩寵に支えられて、私たちは救いをかち得るための闘技場に降り、そこで巧みに、かつ辛抱強く戦い抜いた後、この世の人生の道程の末に、天の父から、当の道行きを果たした者すべてに備えられた報いの冠を受けるのです。なぜなら、使徒パウロの述べているように、「天主は不正な者ではないため、あなたたちの業と愛とをお忘れになることはない31」からです。

28.私たちがいかに心からこの「我らの」という言葉を唱えるべきかを、金口聖ヨハネ32は、次のように述べて示しています。「天主は、自分のためだけでなく、他人のためにも祈るキリスト者の祈りをよろこんでお聞きになります。なぜなら、自らのために祈るのは自然のことであるとすれば、他人のために祈るのは、恩寵の業に他ならないからです。自分のためには必要にかられて祈るのが常である一方、他人のためには、兄弟的愛徳に促されて祈るものです33」。
 同聖人はつづけて、「隣人愛に鼓吹(こすい)された祈りは、必要にかられてなされる祈りよりも、天主に嘉(よ)みせられます」、と記しています。

29.祈りの中の祈りとも言うべき主祷文に関する、このきわめて重要な主題を取り扱うにあたって、司牧者は、年齢、性別、身分、境遇を問わず、全ての信徒に、かかる普遍的兄弟愛のきずなを常に念頭に置き、互いに兄弟、同胞として親切にふるまい、高慢にも自らを他の者よりも優れた者と見なすことの決してないよう、教え諭さねばなりません。実際、天主の教会において職務に基づく異なった階級があるとはいえ、これら諸々の階級および職務の差異は、兄弟的結束の 絆(きずな)をいささかも減じることはありません。しかるにこれは、人体を構成する各部分(肢体)が、それぞれ異なった多様な用途と目的とを有しつつも、各々が自らに固有のはたらきと、「肢体」の名を保つのと同様です。

30.ここに王の権威を有した人がいるとします。さて、この人が信徒であるならば、キリスト教信仰に基づく交わりに含まれる全ての人の兄弟ではないでしょうか。事実そのとおりです。なぜでしょうか。それは、金持ち、王侯君主がその力によって存在するところの天主は、貧者および王侯の支配下にある者たちが依って立つところの天主と異ならないからです。人皆全てに唯一の天主、唯一の父、唯一の主がおられるのです。

31.それゆえ、霊的な出生に基づく皆に同一の高貴さ、同一の尊厳、同一の生まれ、同一の誉れ高き「家元」が属します。なぜなら、皆が同じ一つの霊、同じ一つの信仰の秘蹟によって天主の子として生まれ、同じ一つの世嗣に共に与る者だからです。実際、金持ち、権力者の主たるキリストは、貧乏人、小市民のキリストと異なったキリストであるわけではありません。また、前者が後者と異なる秘蹟に与り、天の御国における別の世嗣に召されているわけでもありません。私たちは皆兄弟であり、また、使徒パウロがエフェゾの信徒に書き送っているように、「キリストの体の肢体であり、その肉と骨とで成り立っている34」のですが、これは同使徒が、ガラツィア人への手紙において述べていることと軌を一にします。すなわち、 「あなたたちは皆、キリスト・イエズスへの信仰によって、天主の子である。キリストにおいて洗礼を受けたあなたたちは皆、キリストを着たからである。もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由民もなく、男も女もない。あなたたちは皆、キリスト・イエズスにおいて一つだからである。35」
32.これこそ霊魂の司牧者が入念に取り扱うべき主題であり、またこの点について、あえて時間を惜しまず説明すべきです。なぜかと言えば、貧しい者、身分の低い者を励まし、勇気づけ、なおかつ富める者、権力を有した者の傲慢を押しとどめ、抑制するのに最適な事柄だからです。実に、この悪弊を正すために、使徒パウロは兄弟的愛徳の必要を力説し、その実践を信徒に勧めてやみませんでした。

33.それゆえ、キリスト者よ、あなたがこの祈りを天主に唱えようとするとき、あなたは子が父に対してするように、主に近づくのであることを思い起こしなさい。したがって、始めに、この「天に在す」という言葉を唱えるとき、天主の比類なき仁慈が、あなたをいかなる地位に高めたかを留意しなさい。実に天主は、僕が主人の前に、いやいや恐れおののきつつ進み出るようにではなく、かえって、息子が父のみ前に喜んで、信頼しきった心で歩み出るといった態度で祈りに臨(のぞ)むことをお命じになったのです。

34.以上のことを念頭に置き、留意した上で、どれほどの熱意と敬虔の念とをもって祈るべきであるかを考慮しなさい。なぜなら、あなたは天主の子たるにふさわしくふるまわなくてはならないからです。すなわち、あなたの祈りと行いとが、この上なく恵み豊かな天主が、あなたにかたじけなくもお与えになった神的出生に、似つかわしくないなどということが、断じてないようにしなければなりません。「愛される子らとして、天主に倣う者であれ36」と述べて使徒パウロは、当の義務をよく果たすよう激励していますが、この勧めに従うならば、私たちも同使徒がテサロニケの信徒に宛てた「あなたたちは皆光の子、昼の子である37」という賛辞に値する者となります。


§ III. 「天に在す」

35.天主についての正しい概念を有する者皆にとって、天主が全ての場所、全ての国に在すことは、疑いの余地のない事実です。無論、これは、天主が部分に分かれており、そのあるものは某々の場所を占め、かつこれを守り、また他のものは別の場所を占め、守るものであるという意味に解してはなりません。実際、天主は霊であり、したがって分割され得ないものだからです。天主ご自身が、「私は天と地とを満たす者ではないか38」と述べておられるのを承知の上で、誰があえて、彼に特定の場所を定め、限られた境界の内に封じ込めることができるでしょうか。

36.この言葉は、天主が、その力と権能とによって天と地、およびこれらが含む一切のものを包含し、なおかついかなる場所にも内包されない、という意味に解するべきです。天主は全てのものの中に、これを創造するため、あるいはこれを存続させるために在(お)られますが、ご自身は、いかなる地域、境界によっても限定ないし束縛されることがなく、また、ご自分の実体と権勢39とによって、あらゆる所に現存するのを妨げられることがありません。しかるに、これこそダビドが「天に駆け上ってもあなたはそこにおられ、冥土を床にしても、あなたはそこにおられる40」という言葉で表しているところです。

37.先述のとおり、天主はいかなる境界によっても制限されることなく、あらゆる場所、あらゆる事物の中に現存しておられますが、しかるに聖書は頻繁に、天主が天に住まわれることを述べています。そのわけは、私たちが頭上にみる天は、世界の最も貴い部分であり、腐敗を被ることなく、他のあらゆる物体を、その力、大きさ、美しさにおいて凌駕し、又、規則的で一定した動きをするものだからです。したがって、天主が聖書中で、天がご自分の居場所であると述べられるのは、ことさら天の御業において輝き出る、限りない権勢と御稜威(みいつ)とを観照すべく、人々の心を促すために他なりません。とは言え、同じ聖書中で、しばしば天主は、世界のいかなる部分にも、ご自分がその本性と権勢とによって現存されることのない所は、およそないことを明言しておられます。 この「天に在す(我らの父よ)」という言葉をとおして、信徒は天主を、単に私たち皆に共通の父としてだけでなく、天に君臨される君主とのイメージ(姿)をとおして思い浮かべることになります。こうして、彼らが祈る際、心と精神とを天に上げるべきこと、又、「父」の名が彼らの心に希望と信頼を抱(いだ)かせる如く、同様に「天に在す我らの父」という言葉の示す、はかり知れない至高の本性ならびに天主としての御稜威(みいつ)は、謙遜と敬虔の念で満たすべきことを思い起こすでしょう。当の言葉はまた、私たちが祈りをとおして天主に願うべきことを定めるものでもあります。すなわち、この地上での生活における利便および必要に関する願いの祈りは、もしこれが天的な善につながらず、またこれを目的としてなされるのでなければ、虚しく、キリスト教信者にふさわしくないものとなります。したがって司牧者は、信徒に、このようにまず第一に霊的な善を願い求めるべきことを教え諭さねばなりませんが、この際、使徒パウロの次の言葉を引き合いに出すべきです。「あなたたちがキリストとともに甦ったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座しておられる。あなたたちは、地上のことではなく、上のことを慕え。41」

38.第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」

§1 この願いが第1の願いである理由

天主に何を、またどのような順序で願うべきかを、万人の師かつ主であるキリストご自身がお教えかつお命じになりました。何となれば、祈りは私たちの欲求と願望とを表明かつ代弁するものであるため、理に適ったふさわしい仕方で、よく祈るためには、私たちの祈求、すなわち私たちの願いと望みとを、祈りの対象となる諸々の事物が望ましいものである程度の順序に従って言い表すことが必要となります。
39.しかるに、真の愛徳は、自らの心と愛情とをあますところなく主に向けるべきことを私たちの精神に悟らせます。実に天主は、ご自身の本性上、唯一・至高の善です。それゆえ、天主を何にも優る特別な愛でお愛しすることが適当ではないでしょうか。
40.他方、もし私たちがその誉れと御栄えとを一切のものに優先しない限り、天主を心を尽くし、何ものにもまして愛することは不可能です。なぜなら、全ての善きものは、それが私たち自身に属するものであれ、又は隣人に属するものであれ、あるいはおしなべて「善(きもの)」と呼ばれるもの一切は、ことごとく天主に由来するのであり、同時に、至高の善である天主にはるかに劣るからです。
41.したがって、私たちが秩序立った仕方で祈りを為すために、私たちの救い主は、至高の善を求める当の祈願を、他の祈願に先んじて、第一に願うべきものとしてお定めになりました。主は私たちに必要なもの―すなわち私たち自身、あるいは私たちの隣人に必要なもの―を願い求める前に、まず天主の御栄えにつながることを願い、かつ天主に、御栄えを熱く望む私たちの心情をお示しするべきことを、私たちにお教えになりました。このようにして私たちは、天主を私たち自身よりもお愛し、また天主のためにお望み申し上げることを、自らのために願うことに先立って求めることを命じる愛徳の則(のり)にしたがうこととなります。

§2 天主の御栄えという言葉が意味するもの

42.人が望み、あるいは求めるのは、自分が持っていないものに他なりません。しかるに、天主には何も欠けるものがありません。天主は無限、かつ全てにおいて完全であるため、成長することも増大することもあり得ません。したがって、私たちが天主ご自身のためにお願い申し上げることは、天主の諸々の完全性ないしはそのご本性に関してではなく、あくまでもその外的な御栄えだけに限られます。すなわち、私たちは天主の御名が世においてよりよく知られ、その御国が広がり、日々新たな僕がその聖き御旨に従うことを望み、願うのです。さて、御名、御国、従属というこの3つのことは、天主に内在する内的な善の中に数えられるものではなく、天主にとって外的な事柄です。しかるに、この願いの意味と価値とをよりよく了解させるために、司牧者は信徒に、「天における如く、地に(おいて)も」という言葉は、主祷文の第1部における3つの願いすべてに適用かつ当てはめることができ、したがって、「御国の天における如く地にも来たらんことを」、「御名の天における如く地にも尊まれんことを」、「御旨の天における如く地にも行われんことを」ということを意味するものである旨、示すべきです。
43.したがって、私たちが「御名の尊まれんことを」と祈るとき、私たちは天主の御名の聖性と栄光とが、いや増すのを願うわけです。ここで司牧者は、敬虔な聴衆に、私たちの主イエズス・キリストは、当の表現を用いられた際、この御名が地上において、天におけるのと等しく聖とされることを意味されたのではない旨、すなわち地上での聖化が天上での聖化と同じ程度で成されることを意味されたのではなく―そのようなことは、全くあり得ませんから―、ただ地上での御名の聖化が、愛徳および心からの心情にその源を発するべきものであることを意味されたに過ぎない旨、教え諭さねばなりません。

44.無論、天主の御名は、この上なく聖(きよ)く畏(おそ)るべきものであり、それ自体において聖化される必要がないということは全く真実で、事実に基づいたことですが、―なぜなら、天主ご自身は,その本性によって聖であり、永劫から帯びておられる聖性以外に、いかなる他の聖性も付け足し得ないことは明らかですから― しかるに、地上においてこの御名は、ふさわしく崇敬されるどころか、往々にして侮辱、冒瀆の言葉でいわば汚されるものなので、そのため、私たちは当の御名が、天において受ける賛美と誉れ、栄光にならって賛美と誉れ、栄光をこの地上で受けることを望み、かつ求めるのです。すなわち、私たちが天主を口、精神、心をもって内的および外的に讃え尊び、天の住人の為す如く、天主の偉大さ、聖性、ならびに栄光を能う限り称揚する恵みを願うのです。したがって私たちは、天の諸天使、諸聖人がこぞって天主の御栄えを讃えて歌う如く、地上でもこれと同様であるよう祈ります。すなわち、全ての民が天主を知り、崇め、かつこれに仕えること、一人残らずキリスト教を奉じ、皆が己が身をことごとく天主に捧げ、天主こそが一切の聖性の源であり、その御名の聖性によらずには、何一つ清く聖なるものたり得ないことを了解するよう祈らねばなりません。
使徒パウロは、「教会が水の洗礼において、命の言葉によって清められた42」ことを著していますが、ここで言う「命の言葉」は、聖父と聖子と聖霊の御名を指すものであり、この御名において私たちは洗礼を受け、聖なる者とされる43のです。

45.したがって、天主の御名がそのために呼び求められないものにおいては、いかなる(罪の)償い、(霊魂の)清さ、聖性もあり得ないため、人類全体が不信仰の汚れた暗冥を打ち捨て、天主の光の光明に照らされてこの御名の力を認め、当の御名の中に真の聖性を探し求めること、又、聖にして分かちがたい三位一体の御名において洗礼を受けた後、他ならぬ天主の御手から、聖性の充満を授かるよう望み、かつ天主に祈り求めねばなりません。

46.しかるに私たちの願望および祈願は、悪徳と罪の汚れに染まって、洗礼のもたらした清さと徳性、ならびに潔白の衣とを失い、不浄な霊が再びその霊魂の中に住まいを設けるにいたった真にあわれな者たちにも及びます。私たちは、彼らの中においても天主の御名が聖とされ、また彼らが我に返って健全な精神を取り戻し、痛悔の秘蹟によって初めの聖性へと立ち帰り、己が身を清く、聖なる神殿ないしは住居(すまい)として天主に捧げるよう望み、祈るのです。

47.さらに私たちは、天主が全ての者の心に御光を照らして、あらゆる善き恵みと全ての完全な賜とは光の父から降り44、天主の仁慈によって与えられるものであることを悟るよう、また、節制、正義、生命、健康45ならびに身体の生命を支える外的善、ならびに霊魂の救いに関する諸々の善を教会が教えるように一切の善がそこから生じ出るところの天主から受けたものとして、これに帰するよう祈ります。事実、太陽の光およびその他の星々の運動と回転とが人類に益し、また私たちを取りかこむ空気が私たちの生存の基盤となり、地が種々の穀物と果実の豊かな実りによって御名の生命を支え、さらには行政に携わる者のはたらきによって平和で安寧な生活を送ることができるならば、これら全ての善およびこれに類した一切の利善は天主のはかり知れぬ仁慈によるものに他なりません。さらには、哲学者が2次的原因と呼ぶところの諸々の事象46は、驚嘆すべき仕方で配置され、かつ私たちの益となるよう整えられた、天主の御手と見なさねばなりません。これらをとおして天主は、数多の利善を配分し、いたる所にお注ぎになるからです。

48.しかるにこの祈願をとおして殊更願うのは、主イエズス・キリストの浄配かつ私たちの母である教会を皆が認め、敬うことです。ただ教会のみが全ての罪の汚れを洗い清め、償うことのできるこの上なく豊かな、尽きることのない泉を有しているからです。実に聖化と救いをもたらす秘蹟の一切は、この泉に源を発し、あたかも聖なる運河のごとく天から聖性の雨露を私たちの上に注ぎます。実際ただ教会のみが、その懐ないしは腕に抱かれた者たちと共に、天主の御名、この他に、それによって私たちが救われることのできる名は、世に与えられなかったこの御名47を呼び求める権利を有するのです。しかるに司牧者は、善き子らは、父なる天主に口で祈るだけでなく、行いと生きざまををとおして、天主の御名が自らの中に聖とされ、輝き出るよう務めるべきである旨、ことさら強調して教え諭さねばなりません。

49.願わくは天主の御名が聖とされることをたゆまず祈り求めながら、行いによって自らの中にこれを卑しめかつ汚し、挙げ句の果ては天主ご自身が冒瀆を浴びる原因となるようなものが一人としていないように。このような者について使徒パウロは「あなたたちのために天主の御名が諸国の民の間で冒瀆されている48」と述べ、また預言者エゼキエルも「あなたたちは行った国々で、人々に『これは主の民だ。 [悪い行いのために]自分の国を出なければならなくなった者たちだ。』と言わせて、私の聖なる名を汚した。49」と著しています。事実、細緻な分別に欠く大衆は、特定の宗教を奉じる者の生きざまと所業とを見て、当の宗教とその創始者とについて判断することが世のならいです。

50.それゆえ、自らのものとして受け入れたキリスト教にしたがって生き、かつ自らの祈りと行いとを当の教えに合わせる善き信徒は、他の人々に天の父の御名を敬い、誉め讃えるよう強く促すこととなります。主ご自身、これを義務として私たちに課されたのであり、したがって、私たちは善徳の目ざましい行いによって、人々が天主の御名を讃え、礼賛するよう務めねばなりません。このためにこそ、主は福音書において、「あなたたちは人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人は、あなたたちの善い行いを見て、天においでになる御父を崇めるであろう50」と仰せられたのです。同様に使徒ペトロも、「異邦人の中にあって、優れた行いをせよ。それは、人々があなたたちの為す善業に即してあなたたちを評価し、またこれがために天主に誉れを帰するためである51」と述べています。

【脚注】
1 トビアの書 5章6節以下
2 使徒行録 12章
3 天使らの創造およびその卓越した本性とに関しては、使徒信経第1箇条の注解を参照。
4 出エジプト記 17章7節
5 エゼキエルの書 8章12節
6 イザヤの書 49章14節
7 創世記 3章17-19節
8 創世記 3章22節
9 詩編 76 10節
10 ハバククの書 3章2節
11 ミカヤの書 7章18節
12 すなわち創造と統治の御業。
13 ヨハネ 1章12節
14 ヨハネ 3章5-6節
15 ペトロ前 1章23節
16 ローマ 8章15節
17 ヨハネの第1の手紙 3章1節
18 詩編88 32-33節
19 ヨブの書 5章18節
20 エレミアの書 31章18節
21 ルカ 21章18節
22 黙示録 3章18節
23 ヘブライ人への手紙 12章5-9節
24 マタイ 23章8節
25 ヘブライ人への手紙 2章11節
26 詩編21 23節
27 マタイ 28章10節
28 マタイ 25章40節
29 ローマ 8章17節
30 ヘブライ人への手紙 1章2節
31 ヘブライ人への手紙 6章10節
32 訳者注 聖ヨハネ・クリゾストモのこと。東方四大教会博士の一人。407年帰天。
33 Chrys. hom. 14 operis imperfecti in Matth.
34 エフェゾ 5章30節
35 ガラツィア 3章26節
36 エフェゾ 5章1節
37 テサロニケ前 5章5節
38 イェレミア 23章24節
39 訳注 ラテン語原文では<potestas>
40 詩編 138章8節
41 コロサイ 3章1-2節
42 エフェゾ 5章26節
43 いかなる意味で、カトリック信徒が「聖なる者」と呼ばれるに値するかについては、ローマ公教要理 使徒信経の部第10章第9条「聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます」第15節を参照。
44 ヤコボ 1章17節
45 ラテン語原文で用いられている言葉<Salus>は、健康のみならず救いないしは救霊をも意味する語である。
46 各被造物は、その諸々のはたらきによって他の被造物の生成ならびに変化の原因たり得るが、これはあくまで万象の存在および活動の究極かつ第一の原因および可能根拠たる天主に依存してのことであり、その意味で「第2次的原因」と呼ばれる。すなわち、天主はおん自ら直接被造物に働きかけることがおできになるとはいえ、(例えば各人の霊魂の創造において)ふつう被造物のはたらき(たとえば両親による子供の出生ならびに養育)をとおして万象を律されるのが常である。
47 使徒行録 4章12節
48 ローマ2章24節
49 エゼキエル36章20節
50 マタイ 5章16節
51 ペトロ前 2章12節

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