長柄出身の大田中将しのぶ 自決前、沖縄思う電文送る 命日に故郷で供養式典 【戦後70年ちば】(ちばとぴ・2015/6/13)
太平洋戦争末期の沖縄戦で、自決する前に沖縄県民の死闘に対して特別の配慮を求める電文を送ったことで知られる大田実海軍中将を供養する式典が13日、生家のある長柄町高山の顕彰碑で開かれた。この日は大田中将の命日で、参列者は戦後70年の節目の年に中将をしのんだ。
長柄町史などによると、大田中将は1891年4月に生まれた。幼いころから神童と呼ばれ、当時の県立千葉中学校から海軍兵学校に進む。1945年1月から沖縄方面根拠地隊司令官として米軍との戦いを指揮し、同年6月13日に自決した。
大田中将は自決前の6月6日、海軍次官に「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と電文を送っていた。沖縄県民の命がけの協力に報いるよう訴える内容だった。
顕彰碑は73年、当時の町長らが中心となった町民有志が建立。今回の式典は、同町六地蔵にある西福寺の三田隆廣住職(40)と日本の歴史上の人物を研究している茂原市の大塚浩市さん(67)が呼び掛けて開催した。
式典には地元住民や大塚さんの仲間ら15人が参列。三田住職の読経の後、参列者は顕彰碑に焼香して、手を合わせていた。三田住職は毎年、慰霊法要で沖縄を訪れているといい「中将は沖縄の人を思い、後世の平和を願って電文を送ったと思う。今後も沖縄での戦いがあったことを、若い世代に伝えていきたい」と話している。
太平洋戦争末期の沖縄戦で、自決する前に沖縄県民の死闘に対して特別の配慮を求める電文を送ったことで知られる大田実海軍中将を供養する式典が13日、生家のある長柄町高山の顕彰碑で開かれた。この日は大田中将の命日で、参列者は戦後70年の節目の年に中将をしのんだ。
長柄町史などによると、大田中将は1891年4月に生まれた。幼いころから神童と呼ばれ、当時の県立千葉中学校から海軍兵学校に進む。1945年1月から沖縄方面根拠地隊司令官として米軍との戦いを指揮し、同年6月13日に自決した。
大田中将は自決前の6月6日、海軍次官に「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と電文を送っていた。沖縄県民の命がけの協力に報いるよう訴える内容だった。
顕彰碑は73年、当時の町長らが中心となった町民有志が建立。今回の式典は、同町六地蔵にある西福寺の三田隆廣住職(40)と日本の歴史上の人物を研究している茂原市の大塚浩市さん(67)が呼び掛けて開催した。
式典には地元住民や大塚さんの仲間ら15人が参列。三田住職の読経の後、参列者は顕彰碑に焼香して、手を合わせていた。三田住職は毎年、慰霊法要で沖縄を訪れているといい「中将は沖縄の人を思い、後世の平和を願って電文を送ったと思う。今後も沖縄での戦いがあったことを、若い世代に伝えていきたい」と話している。
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