津本英利著『ヒッタイト帝国』(PHP新書)に目を通してみると、思いもよらず『金枝篇』に執拗に記されている習俗が正しかったのではないかと思い知らされる。
『金枝篇』で強調されているのは「王殺し&神殺し」の習俗についてであった。それは決して野蛮人の風習ではないだろうという前提で示されている。「王殺し」とは、聖なる王を殺す事を意味しており、何故、そうなっているのかというと、王は神と通じている存在なので、その王の力が衰えていると感じたら、その王を殺して変えて別の王に挿げ替えてしまうという思考法を指している。
未開の人々はときとして、自らの安全と、さらにはこの世の存続さえも、人間神もしくは神の化身である人間の生命に、結びついていると信じている。それゆえ当然のことながら、彼らは自らの生命を守るために、その人間神の生命維持に最大限の配慮をする。だがどれほど世話をやき予防措置をとろうとも、人間神が年を取り、弱り、果ては死んでしまうことを、防ぐことはできない。崇拝者たちはこの悲しい必然性に対して覚悟を決め、最善の努力をしてこれにむきあわなければならない。危険はおそるべきものである。つまり、自然の成り行きがこの人間神の生命にかかっているのであれば、彼の力が徐々に弱まり、最後には死という消滅を迎えることには、どれほどの破局が予想されることだろうか? これらの危険を回避する方法は一つしかない。人間神の力の衰える兆しを見せ始めたならばすぐに、殺すことである。そうして彼の魂は、迫り来る衰弱により多大な損傷を被るより早く、強壮な後継者に移しかえられなければならないのである。フレイザー著・吉川信訳『初版 金枝篇』上巻(ちくま学芸文庫)301〜302頁
『金枝篇』には賛否があるので、胡散臭くも感じてしまうものかも知れませんが、どうも歴史を遡ってゆくと、これを否定できなくなってくる。何故、人々を統べる王というものが出来たのかというと、それは神と繋がっている聖王という意味で王になっており、その王の力が衰弱しているとなると民衆は王を殺して次の強壮な人物を王に立ててきた。これは組織とか共同体を成立させる〈秩序そのもの〉の話にもなってくる。その共同体が共同体として結束する為には、神にも通じている聖なる王が必要であり、どうも文明は、そのようにして「聖なる王」を創り出して発達してきた節がある。
また、その集団を束ねる「王」というものが出来たとして、後継問題が起こる訳です。21世紀の現在では民主的にリーダーを選ぶ事が正しいと考えられている。しかし、民主主義システムももしかしたら末期的状況になっていいるのかも知れない。では、王のようなものは、早期から世襲制であったのかというと、どうもそうではないらしいのだ。世襲さえも、実は秩序立てる為の知恵として生み出された何かであり、世襲が定着する以前のそれは、どうも王位簒奪みたいなものは必然的に起こっていた節がある。その例がヒッタイトの歴史にも見られるよな、と。(ヒッタイトの歴史は非常に古いものであるにも関わらず、粘土板文字が現存している為に解明が進んでいるのだそうな。)
ヒッタイトの登場は、なんと紀元前17世紀頃だという。詳細は不明なレベルであるが最初の王はラバルナという名前であり、その伝説の王の名前「ラバルナ」に由来する「タバルナ」が【王】もしくは【大王】を意味するようになったものと考えられるのだそうな。これは「カエサル」の名が後世では皇帝の意味で使用されたものと似ている。
ヒッタイトを大きく躍進させたのはハットゥシリ1世であったという。古ヒッタイトであり、印欧語を用いる征服民族がハティ人が住んでいた地域へやってきて、謎の製鉄技術でヒッタイトを起こしたという。ハットゥシリ1世は中央アナトリア地方を統一し、シリアの都市国家を次から次へと従属させてゆき、古代オリエント地方に於ける貿易の拠点をも支配下に置いた。言わば、英雄であった訳ですが人間関係は不幸だったらしく、兄弟や子供たちの裏切りが相次いだという。ハットゥシリ1世は、孫のムルシリ1世に王位を継がせた。ハットゥシリ1世の言葉が遺されているという。
孫のムルシリに対して、息子や娘のようにならぬよう、自分の言葉をよく聞いて「パンを食べ、(酒ではなく)水を飲み(酒色に耽るなという戒め)、臣下の言葉をよく聞いて慈悲深く治めよ」と切々と諭している。(『ヒッタイト帝国』37頁)
紀元前の17世紀からどんなに遅くとも16世紀という途轍もなく古い時代から、そんな事を人類はやってきているのが確認できる。建国の英雄・ハットゥシリ1世は、あちらこちらの粘土板に似たような言葉を残していたらしく、つまり、「パンを食べ水を飲み、酒色に耽ることなく、臣下の言葉をよく聞き、慈悲深く治めよ」なのだ。しかし、そうした教えというのは中々踏襲されない訳です。
王位を継承したムルシリ1世は、シリアへの征服事業を継続させ、南下してはハンムラビ法典で名高いバビロン第一王朝を滅ぼした。これが、紀元前16世紀の事だと推定されているという。
しかし、そのムルシリ1世は姉妹ハラプシリの夫であるハンティリに殺害され、王位を奪われてしまったという。つまり、義兄弟による王位の簒奪である訳ですが、そのハンティリも息子諸共に娘婿のジダンタに殺害されて王位を奪われ、そのジダンタは実の息子のアンナムに殺されて王位を奪われたという。そのアンナムは寿命を全うできたらしいが、アンナムの子が王位を継承しておらず、姻戚関係にあったフッジヤという人物がアンナムの息子たちを殺害し、王位を強奪。このフッジヤに対してアンナムの息子の一人でフッジヤの姉の夫あったテリピヌがクーデターを起こして、王位に就いたという。もう、何が何だか分からない。しかし、王位簒奪がやたらと多いものであったのが分かる。
また、先述した箇所にも露見してしまいましたが、紀元前17〜16世紀頃から、どうも「パンを食べて水を飲み、酒色を控えろ」のような価値観があった事が分かる。更には頭から油をかける儀式があり、その手の古い古い慣習が後のキリスト教の洗礼の儀式になったであろうと展開させている『金枝論』の仮説の信憑性を補足している。
安定して治めるという事は、実は至難の業であり、孔子の儒教が秩序を重んじていた事にも通じるものかも知れない。また、王は男系で世襲とするとか、正室と側室の子の扱いの違いなどに繋がってゆく。すべては、不要な争いを回避する為にそのようなルールが作られて行ったものである事が分かる。
紀元前14世紀になると、古ヒッタイトから中期ヒッタイトに変わるのだという。この頃になると、もう「タバルナ」という言葉は使用されなくなっているという。この中期ヒッタイト帝国はチャリオット(戦車)という新兵器が登場した時代であり、中期ヒッタイト帝国の南部にはミタンニ王国と誕生した。ヒクソスという名の異邦人がフリ人たちを統治したのがミタンニ王国だという。このミタンニ王国はチャリオットを使用するのが巧みで勢力を拡大し、エジプト王朝をも脅かしたという。中期ヒッタイト帝国は相変わらず、王を殺害しての王位の簒奪が継続していたという。まぁ、いつの時代でも権力というものが出来てしまうと、その権力に対しての執着心は強く、争いは絶えないという訳ですかね。
『金枝篇』で強調されているのは「王殺し&神殺し」の習俗についてであった。それは決して野蛮人の風習ではないだろうという前提で示されている。「王殺し」とは、聖なる王を殺す事を意味しており、何故、そうなっているのかというと、王は神と通じている存在なので、その王の力が衰えていると感じたら、その王を殺して変えて別の王に挿げ替えてしまうという思考法を指している。
未開の人々はときとして、自らの安全と、さらにはこの世の存続さえも、人間神もしくは神の化身である人間の生命に、結びついていると信じている。それゆえ当然のことながら、彼らは自らの生命を守るために、その人間神の生命維持に最大限の配慮をする。だがどれほど世話をやき予防措置をとろうとも、人間神が年を取り、弱り、果ては死んでしまうことを、防ぐことはできない。崇拝者たちはこの悲しい必然性に対して覚悟を決め、最善の努力をしてこれにむきあわなければならない。危険はおそるべきものである。つまり、自然の成り行きがこの人間神の生命にかかっているのであれば、彼の力が徐々に弱まり、最後には死という消滅を迎えることには、どれほどの破局が予想されることだろうか? これらの危険を回避する方法は一つしかない。人間神の力の衰える兆しを見せ始めたならばすぐに、殺すことである。そうして彼の魂は、迫り来る衰弱により多大な損傷を被るより早く、強壮な後継者に移しかえられなければならないのである。フレイザー著・吉川信訳『初版 金枝篇』上巻(ちくま学芸文庫)301〜302頁
『金枝篇』には賛否があるので、胡散臭くも感じてしまうものかも知れませんが、どうも歴史を遡ってゆくと、これを否定できなくなってくる。何故、人々を統べる王というものが出来たのかというと、それは神と繋がっている聖王という意味で王になっており、その王の力が衰弱しているとなると民衆は王を殺して次の強壮な人物を王に立ててきた。これは組織とか共同体を成立させる〈秩序そのもの〉の話にもなってくる。その共同体が共同体として結束する為には、神にも通じている聖なる王が必要であり、どうも文明は、そのようにして「聖なる王」を創り出して発達してきた節がある。
また、その集団を束ねる「王」というものが出来たとして、後継問題が起こる訳です。21世紀の現在では民主的にリーダーを選ぶ事が正しいと考えられている。しかし、民主主義システムももしかしたら末期的状況になっていいるのかも知れない。では、王のようなものは、早期から世襲制であったのかというと、どうもそうではないらしいのだ。世襲さえも、実は秩序立てる為の知恵として生み出された何かであり、世襲が定着する以前のそれは、どうも王位簒奪みたいなものは必然的に起こっていた節がある。その例がヒッタイトの歴史にも見られるよな、と。(ヒッタイトの歴史は非常に古いものであるにも関わらず、粘土板文字が現存している為に解明が進んでいるのだそうな。)
ヒッタイトの登場は、なんと紀元前17世紀頃だという。詳細は不明なレベルであるが最初の王はラバルナという名前であり、その伝説の王の名前「ラバルナ」に由来する「タバルナ」が【王】もしくは【大王】を意味するようになったものと考えられるのだそうな。これは「カエサル」の名が後世では皇帝の意味で使用されたものと似ている。
ヒッタイトを大きく躍進させたのはハットゥシリ1世であったという。古ヒッタイトであり、印欧語を用いる征服民族がハティ人が住んでいた地域へやってきて、謎の製鉄技術でヒッタイトを起こしたという。ハットゥシリ1世は中央アナトリア地方を統一し、シリアの都市国家を次から次へと従属させてゆき、古代オリエント地方に於ける貿易の拠点をも支配下に置いた。言わば、英雄であった訳ですが人間関係は不幸だったらしく、兄弟や子供たちの裏切りが相次いだという。ハットゥシリ1世は、孫のムルシリ1世に王位を継がせた。ハットゥシリ1世の言葉が遺されているという。
孫のムルシリに対して、息子や娘のようにならぬよう、自分の言葉をよく聞いて「パンを食べ、(酒ではなく)水を飲み(酒色に耽るなという戒め)、臣下の言葉をよく聞いて慈悲深く治めよ」と切々と諭している。(『ヒッタイト帝国』37頁)
紀元前の17世紀からどんなに遅くとも16世紀という途轍もなく古い時代から、そんな事を人類はやってきているのが確認できる。建国の英雄・ハットゥシリ1世は、あちらこちらの粘土板に似たような言葉を残していたらしく、つまり、「パンを食べ水を飲み、酒色に耽ることなく、臣下の言葉をよく聞き、慈悲深く治めよ」なのだ。しかし、そうした教えというのは中々踏襲されない訳です。
王位を継承したムルシリ1世は、シリアへの征服事業を継続させ、南下してはハンムラビ法典で名高いバビロン第一王朝を滅ぼした。これが、紀元前16世紀の事だと推定されているという。
しかし、そのムルシリ1世は姉妹ハラプシリの夫であるハンティリに殺害され、王位を奪われてしまったという。つまり、義兄弟による王位の簒奪である訳ですが、そのハンティリも息子諸共に娘婿のジダンタに殺害されて王位を奪われ、そのジダンタは実の息子のアンナムに殺されて王位を奪われたという。そのアンナムは寿命を全うできたらしいが、アンナムの子が王位を継承しておらず、姻戚関係にあったフッジヤという人物がアンナムの息子たちを殺害し、王位を強奪。このフッジヤに対してアンナムの息子の一人でフッジヤの姉の夫あったテリピヌがクーデターを起こして、王位に就いたという。もう、何が何だか分からない。しかし、王位簒奪がやたらと多いものであったのが分かる。
また、先述した箇所にも露見してしまいましたが、紀元前17〜16世紀頃から、どうも「パンを食べて水を飲み、酒色を控えろ」のような価値観があった事が分かる。更には頭から油をかける儀式があり、その手の古い古い慣習が後のキリスト教の洗礼の儀式になったであろうと展開させている『金枝論』の仮説の信憑性を補足している。
安定して治めるという事は、実は至難の業であり、孔子の儒教が秩序を重んじていた事にも通じるものかも知れない。また、王は男系で世襲とするとか、正室と側室の子の扱いの違いなどに繋がってゆく。すべては、不要な争いを回避する為にそのようなルールが作られて行ったものである事が分かる。
紀元前14世紀になると、古ヒッタイトから中期ヒッタイトに変わるのだという。この頃になると、もう「タバルナ」という言葉は使用されなくなっているという。この中期ヒッタイト帝国はチャリオット(戦車)という新兵器が登場した時代であり、中期ヒッタイト帝国の南部にはミタンニ王国と誕生した。ヒクソスという名の異邦人がフリ人たちを統治したのがミタンニ王国だという。このミタンニ王国はチャリオットを使用するのが巧みで勢力を拡大し、エジプト王朝をも脅かしたという。中期ヒッタイト帝国は相変わらず、王を殺害しての王位の簒奪が継続していたという。まぁ、いつの時代でも権力というものが出来てしまうと、その権力に対しての執着心は強く、争いは絶えないという訳ですかね。