どーか誰にも見つかりませんようにブログ

人知れず世相を嘆き、笑い、泣き、怒り、呪い、足の小指を柱のカドにぶつけ、金星人にSOSのメッセージを発信し、場合によっては「私は罪のない子羊です。世界はどうでもいいから、どうか私だけは助けて下さい」と嘆願してみる超前衛ブログ。

惹句 DE JACK〜名言&迷言

第三次世界大戦にどんな武器が使われるかはわからない。
だが第四次世界大戦は、棒と石で戦うことになるだろう。

アルベルト・アインシュタイン

津本英利著『ヒッタイト帝国』(PHP新書)に目を通してみると、思いもよらず『金枝篇』に執拗に記されている習俗が正しかったのではないかと思い知らされる。

『金枝篇』で強調されているのは「王殺し&神殺し」の習俗についてであった。それは決して野蛮人の風習ではないだろうという前提で示されている。「王殺し」とは、聖なる王を殺す事を意味しており、何故、そうなっているのかというと、王は神と通じている存在なので、その王の力が衰えていると感じたら、その王を殺して変えて別の王に挿げ替えてしまうという思考法を指している。

未開の人々はときとして、自らの安全と、さらにはこの世の存続さえも、人間神もしくは神の化身である人間の生命に、結びついていると信じている。それゆえ当然のことながら、彼らは自らの生命を守るために、その人間神の生命維持に最大限の配慮をする。だがどれほど世話をやき予防措置をとろうとも、人間神が年を取り、弱り、果ては死んでしまうことを、防ぐことはできない。崇拝者たちはこの悲しい必然性に対して覚悟を決め、最善の努力をしてこれにむきあわなければならない。危険はおそるべきものである。つまり、自然の成り行きがこの人間神の生命にかかっているのであれば、彼の力が徐々に弱まり、最後には死という消滅を迎えることには、どれほどの破局が予想されることだろうか? これらの危険を回避する方法は一つしかない。人間神の力の衰える兆しを見せ始めたならばすぐに、殺すことである。そうして彼の魂は、迫り来る衰弱により多大な損傷を被るより早く、強壮な後継者に移しかえられなければならないのである。フレイザー著・吉川信訳『初版 金枝篇』上巻(ちくま学芸文庫)301〜302頁

『金枝篇』には賛否があるので、胡散臭くも感じてしまうものかも知れませんが、どうも歴史を遡ってゆくと、これを否定できなくなってくる。何故、人々を統べる王というものが出来たのかというと、それは神と繋がっている聖王という意味で王になっており、その王の力が衰弱しているとなると民衆は王を殺して次の強壮な人物を王に立ててきた。これは組織とか共同体を成立させる〈秩序そのもの〉の話にもなってくる。その共同体が共同体として結束する為には、神にも通じている聖なる王が必要であり、どうも文明は、そのようにして「聖なる王」を創り出して発達してきた節がある。

また、その集団を束ねる「王」というものが出来たとして、後継問題が起こる訳です。21世紀の現在では民主的にリーダーを選ぶ事が正しいと考えられている。しかし、民主主義システムももしかしたら末期的状況になっていいるのかも知れない。では、王のようなものは、早期から世襲制であったのかというと、どうもそうではないらしいのだ。世襲さえも、実は秩序立てる為の知恵として生み出された何かであり、世襲が定着する以前のそれは、どうも王位簒奪みたいなものは必然的に起こっていた節がある。その例がヒッタイトの歴史にも見られるよな、と。(ヒッタイトの歴史は非常に古いものであるにも関わらず、粘土板文字が現存している為に解明が進んでいるのだそうな。)

ヒッタイトの登場は、なんと紀元前17世紀頃だという。詳細は不明なレベルであるが最初の王はラバルナという名前であり、その伝説の王の名前「ラバルナ」に由来する「タバルナ」が【王】もしくは【大王】を意味するようになったものと考えられるのだそうな。これは「カエサル」の名が後世では皇帝の意味で使用されたものと似ている。

ヒッタイトを大きく躍進させたのはハットゥシリ1世であったという。古ヒッタイトであり、印欧語を用いる征服民族がハティ人が住んでいた地域へやってきて、謎の製鉄技術でヒッタイトを起こしたという。ハットゥシリ1世は中央アナトリア地方を統一し、シリアの都市国家を次から次へと従属させてゆき、古代オリエント地方に於ける貿易の拠点をも支配下に置いた。言わば、英雄であった訳ですが人間関係は不幸だったらしく、兄弟や子供たちの裏切りが相次いだという。ハットゥシリ1世は、孫のムルシリ1世に王位を継がせた。ハットゥシリ1世の言葉が遺されているという。

孫のムルシリに対して、息子や娘のようにならぬよう、自分の言葉をよく聞いて「パンを食べ、(酒ではなく)水を飲み(酒色に耽るなという戒め)、臣下の言葉をよく聞いて慈悲深く治めよ」と切々と諭している。(『ヒッタイト帝国』37頁)

紀元前の17世紀からどんなに遅くとも16世紀という途轍もなく古い時代から、そんな事を人類はやってきているのが確認できる。建国の英雄・ハットゥシリ1世は、あちらこちらの粘土板に似たような言葉を残していたらしく、つまり、「パンを食べ水を飲み、酒色に耽ることなく、臣下の言葉をよく聞き、慈悲深く治めよ」なのだ。しかし、そうした教えというのは中々踏襲されない訳です。

王位を継承したムルシリ1世は、シリアへの征服事業を継続させ、南下してはハンムラビ法典で名高いバビロン第一王朝を滅ぼした。これが、紀元前16世紀の事だと推定されているという。

しかし、そのムルシリ1世は姉妹ハラプシリの夫であるハンティリに殺害され、王位を奪われてしまったという。つまり、義兄弟による王位の簒奪である訳ですが、そのハンティリも息子諸共に娘婿のジダンタに殺害されて王位を奪われ、そのジダンタは実の息子のアンナムに殺されて王位を奪われたという。そのアンナムは寿命を全うできたらしいが、アンナムの子が王位を継承しておらず、姻戚関係にあったフッジヤという人物がアンナムの息子たちを殺害し、王位を強奪。このフッジヤに対してアンナムの息子の一人でフッジヤの姉の夫あったテリピヌがクーデターを起こして、王位に就いたという。もう、何が何だか分からない。しかし、王位簒奪がやたらと多いものであったのが分かる。

また、先述した箇所にも露見してしまいましたが、紀元前17〜16世紀頃から、どうも「パンを食べて水を飲み、酒色を控えろ」のような価値観があった事が分かる。更には頭から油をかける儀式があり、その手の古い古い慣習が後のキリスト教の洗礼の儀式になったであろうと展開させている『金枝論』の仮説の信憑性を補足している。

安定して治めるという事は、実は至難の業であり、孔子の儒教が秩序を重んじていた事にも通じるものかも知れない。また、王は男系で世襲とするとか、正室と側室の子の扱いの違いなどに繋がってゆく。すべては、不要な争いを回避する為にそのようなルールが作られて行ったものである事が分かる。

紀元前14世紀になると、古ヒッタイトから中期ヒッタイトに変わるのだという。この頃になると、もう「タバルナ」という言葉は使用されなくなっているという。この中期ヒッタイト帝国はチャリオット(戦車)という新兵器が登場した時代であり、中期ヒッタイト帝国の南部にはミタンニ王国と誕生した。ヒクソスという名の異邦人がフリ人たちを統治したのがミタンニ王国だという。このミタンニ王国はチャリオットを使用するのが巧みで勢力を拡大し、エジプト王朝をも脅かしたという。中期ヒッタイト帝国は相変わらず、王を殺害しての王位の簒奪が継続していたという。まぁ、いつの時代でも権力というものが出来てしまうと、その権力に対しての執着心は強く、争いは絶えないという訳ですかね。
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今年は年初から訃報が相次いで発生、正確には昨年の大晦日に亡くなったという話が2件もあった。そして3月には幼少期には随分と世話になった伯母が亡くなった。その伯母にはミニカーを買ってもらった記憶はあったものの、風邪を引いた際には「鼻を詰まらせていて可哀想」といって洟を口で吸ってもらった事があるというけど、それについての記憶はない。しかし、まぁ、世話になった伯母が当たり前のように他界するような状況になっている。

単に私が年齢を重ねてきたという問題と、そうではないなと感じている問題がある。親世代が80代になってくると、伯父伯母も叔父叔母も、「もう、兄弟姉妹の葬儀であっても実質的には足を運べなくなる」という事情が判明し始めているのだ。免許は返納してしまっているし、膝関節などを痛めているので葬儀場へ来ても難儀するだけで――となる。

そもそもという話にもなってくる。皆が皆、当然のように墓を用意したりしてきたのだけれども、実際問題として、「そもそも墓は必要だったのか?」という話にもなってきている。堂々とした家格があって子々孫々まで墓を守れるというケースは稀で、昭和十年代生まれぐらいだと8人兄弟とか6人兄弟はザラであり、その世代で戦後の東京に出て来て、その後、独立をして郊外に家を持った、家庭を持ったという〈金の卵〉と呼ばれた世代の人たちというのがある。あの世代というのは、今になって冷静に人口動態で語ってしまうと、確実に人口ボーナス世代だったのだ。

映画「ALWAYS三丁目の夕日」で言えば、堀北真希さんが演じた「六ちゃん」、あの「六ちゃん」世代が結婚して子供を設けて墓を購入していたとする、しかし、その世代は「そもそも子世代や孫世代に墓を守れるのか?」という問題に直面しているのだ。子世代までは何とかなるが孫世代になると無理だろうとか、その先の曾孫世代の事を考えると墓を守ってくれなんて絶対に無理だろう、となってきている。

そうした話を叔母と話していたら、なにやらオモシロい話を聞かされてしまった。丁度、下山事件とか戦後日本の三大事件だとか三大鉄道事件などが念頭にあったのですが、「あの頃、三河島で事故があったでしょう? あの辺りは朝鮮の人が沢山住んでいた場所だった」とか言ってる。「鶯谷の大火」も実際に目撃したらしいのだけれども、その大火にしても実は「吉展ちゃん事件」と関連している。まぁ、高齢者というのは時代の証言者なんだなぁ…と思い知らされた。「あの辺には朝鮮の人が沢山住んでいた」なんてのは、まぁ、その当時のその場所を知っている人の語り口であり、そのエリアがスラムであった事を示す生々しい証言だったりする訳です。

それと叔母の半生みたいなものも聞かされてしまったのですが、夫に浮気をされて離婚。子供を引き取って育てたのが、その叔母であった。何に驚いたのかというと、その元夫の「その後」についてであった。元夫は借金をつくっており、借金取りから逃れる為に北海道へ夜逃げ、どこぞの港で死んだのだという。自殺とも他殺とも分からないが、まぁ、そうであったらしい。(元夫が)「死んだ」という事は連絡があったけど、葬儀に出る義理もないからで済ませたのだという。叔母の語り口からすると、まるで(元夫は)「殺された」かのような口ぶりであったが、そんな道を生き抜いたのだなぁ…と思い知らされる。もし、そのタイミングで叔母が離婚して子供を連れ出していなかったならば、その叔母自身も、或いは私の従兄弟に当たる2人も、一体全体、どうなっていたのか分かりぁしない。

まぁ、「人に歴史あり」って事なのでしょうねぇ。誰に語られる事もないが、一人の人間の生きた道には相応の歴史があるという訳だ。


で、やはり、伯母の訃報が入った前日だったのですが「虫の知らせ」を体感した。偶然といえば偶然なのですが、仕事で使用している机、そこに置いてあった鈴がチリンと鳴った。不思議だなと感じた。机に触れていない状態だったし、風だって吹いた様子もなかった。なので「変だなぁ」と思いながらも、その鈴を机の引き出しの中に仕舞った。しかし、そういう風に行動をすると「きっと風か振動かで鈴が鳴ったのだろう」と、その出来事を処理する。しかし、翌日に伯母の突然の訃報を聞いたのであった。

「虫の知らせ」なんですが、やはり、『日本の黒い霧』の「もく星号事件」でも軽く触れられていた。勿論、松本清張は偶然であると片付けているものだと思いますが、飛行機の墜落事故であるとか列車事故などでは、「今にして思えば…」という話は多そうですかね。日立製作所の常務取締役のA氏は、もく星号に搭乗した一人であった。最後に残した言葉は「きれいな下着に着替えておけば死んでも見苦しくない」だったのだそうな。事故が発生した後になって回想すると、まるで不吉な兆候を嗅ぎ取っていたかのようなジョークであったように思えてしまう訳です。

湯船に浸かりながら考えたんですが、宇宙には引力と磁力と大きな力と小さな力があるという。これをモナド(量子)論に置き換えた時、量子は何かに引き寄せられたり、反発したり、結合したり、核分裂したりする。何かしらの力が作用して宇宙が構成されている。ヒトというのも個体であり、このヒトの個体だってモナドと見なせば、何かに引き寄せられたり、反発したり、引力でも磁力ではないのだけれども、何かに操られているところがあるような気がする。

世人というのは基本的にはカネに群がり、スターに群がり、カワイコちゃんやイケメンに群がり、話題の飲食店に行列をつくる。ヒトを動かしている原動力は、引力でも磁力でもなく、〈欲望〉という原理なのでしょう。これは修辞法的な意味合いとか頓智を利かせて「巧い事」を言おうとしているのではなくて、本当にそういうシステムでつくられているのではないかな、と。未来の眼鏡をかけてみると、本来は認識できない欲望原理を見透かせるようになっていて、人間界ではことごとく、その力が支配している――とかね。

そういう力がありとあらゆる世事を創り出している事に気付く事になるのではないかな。現時点では、そういう可視化不能なものを合理的に理解できないから「虫の知らせ」のような事を理解できないだけなのではないだろか。
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改めて「下山事件」の予習です。

「下山事件」の概要から。1949年(昭和24年)7月5日の午前9時過ぎ、国鉄初代総裁の下山貞則は運転手に日本橋三越へ行くように命じ、三越へ入って行った。そのまま、運転手を待たるカタチで行方不明となった。その下山総裁は意外なカタチで発見された。日付が変わった6日の午前0時過ぎ、東京都足立区五反野南町934番地先の常磐線北千住−綾瀬間で轢死体が発見されたというのが事件であった。

轢死体を発見したのは上野駅から松戸行きの最終列車であった。北千住駅を0時24分に発車し、東武線ガード下の交差点を通過したところで、約20メートル前方の線路内に不審物があることを視認、運転士は即座に轢死体だと直感し、綾瀬駅に0時26分に到着すると、同駅助役に「轢死体らしきものがあるが、調べてもらいたい」と連絡し、直ぐに発車した。綾瀬駅の駅員が小雨の降る中、現場へ行ってみると四分五裂になった男性の轢死体である事が確認された。

少し注意して欲しいのは、この最終電車が轢いたのではなく、この最終電車の前に通過した貨物列車が轢いたものであり、遺体を発見したのが上野発の常磐線の最終列車であったという意味である。

実際に轢いた貨物列車は田端駅発の貨物列車であり、通常よりも8分ほど発車が遅れ、現場を通過したのは0時19分から20分の間だと推測されている。

小雨の降る中、カンテラを下げて綾瀬駅員が現場へ駆けつけてみると、そこに恰幅のいい裸の胴体がうつ伏せになっているのが見えた。これが午前1時頃。その後、警察官がやってきて警察官が「下村総裁のパスが落ちていました」と言って、ポケットから定期入れを出してみせた。その付近を探してみると、首と右腕、左足のない胴体が見つかった。更に、その傍から腕時計が発見され、その1メートル先から大きな肉の塊が見つかった。この頃には大雨が降り始めていた――。

綾瀬駅の斎藤駅長が現場に駆け付けたのは午前3時頃であった。斎藤駅長が胴体を持ち上げてみると、胴体の下にある石は全然濡れておらず、また、血も付着していなかった。顔面は二つに割れていて下向きになっていたが、これを裏返した時にも、石は渇いていて濡れておらず、血もついていなかった。下山総裁は眼鏡をかけていたので、眼鏡もある筈だと思い、眼鏡も捜索したが眼鏡についてはとうとう最後まで発見されなかった。また、この時に回収された腕時計は何か証拠になってもよさそうであったが発見した警察官が不注意にも腕時計のネジを動かしてしまった事で証拠品としては採用されない事になった。

さて、松本清張著『日本の黒い霧』上巻(文春文庫)から少し引用します。

下山総裁の屍体を大きく分けると五つの部分に切断されていた。首、胴、右腕、左足、右足首である。頭の部分は殆んどメチャクチャに粉砕されており、脳味噌は三分の一ぐらいしかなかった。肋骨は殆んど押し潰されたように折れており、心臓は肋骨の間から外部に飛び出し、しかも穴があいていた。屍体の各部分には三百数十ヵ所の疵があったが、轢断されたところには「生活反応」が無かった。麻酔薬や毒薬を使用した痕跡は無かった。列車に轢かれた状態は、俯せて直角に線路上に横たわり、顎を線路の上に載せていたと思われ、頭蓋骨が粉砕されており、顔の表皮だけが剥ぎ取られていたようになっていたが、これは機関車の排障器が刃物のような役目をしたものと推定された。(『日本の黒い霧』上巻16〜17頁)

実は、この下山事件では、生きたまま轢かれたのか、それとも死後に轢断されたのかで大モメになった。血が流れている筈があまり流れていなかったり、司法解剖でも意見が割れるという異様な展開になった事件であった。なので、実は遺体の状況は重要になってくる。

再び引用します。

下山の死体の位置は、線路の上にうつ伏せになり、左手は曲げていたが、右手は線路の外に突出されていたのである。ちょうど線路の軌条の所に下山の右腕が当てがわれていた。死体が四分五裂の肉片になっているにも拘らず、右手だけは付根から切断されて、上膊から先が完全であった事実を思うがよい。つまり付根を切断されたことで右腕の腋下あたりの部分がメチャクチャになってしまっているのだ。

人を殺害する方法に刃物や注射以外に人間の血液を抜く方法がある。それは主に日本人の殺害感覚にはない。〜略〜外国では、例として全身の血を抜き取って死に至らしめる方法がある。下山の場合は腕の付根をメチャクチャにされているところから見て、或いは右腕腋の静脈から血を取られて、その痕跡を消すために軌条に注射場所を轢かせたのではないだろうか。この推定は、古畑博士も云っていることだ。
(同78〜79頁)

想像以上に、おどろおどろしい話になっている事に気付かされる。右腋下から血を抜き取って殺害したのではないかと論じているのだ。しかも、それは松本清張の推断のみではなく、引用文中に名前が挙げられている古畑博士も関係している。この下山総裁の遺体は法医学者によって死体鑑定が行われた。東京大学の古畑種基(ふるはたたねもと)博士と、慶應大学の中館博士との間で、死後に轢断されたものなのか、生体のまま轢断されたものなのかを巡っての大論争が起こっていたのだという。

古畑博士は死体に生活反応がないので「死後轢断」と判断した。中館博士は過去の男性の轢死のケースでは、睾丸、陰茎、手の甲に内出血が見られたとして「生体轢断」説を採って対立したのだ。勿論、死後轢断であったなら他殺となり、生体轢断となれば断定はできないが自殺の公算が高くなるという訳です。

またまた引用します。

警視庁捜査一課がこの中館博士の意見に力を得て自殺説を取る根拠としたのは知られる通りである。しかし古畑博士は「中館博士は屍体の解剖に立会ったわけでもなく、また桑島博士の鑑定書を見たわけでもない。それなのに何を根拠に反駁し自殺などと判断するのかその気持が納得できない。中館さんはかかる発言をする材料を持っていないし発言の権利もない」ときめつけている。それはともかく、捜査一課は、なぜ古畑博士の死後轢断説を斥けて屍体も鑑定書も見ていない中館博士の意見を採用したのであるか。(同31頁)

日本歴史大辞典で【下山事件】を引くと、次のような一節がある。

当初、新聞は国労組合員や共産党員の犯行をにおわせたが、死因をめぐり自殺説・他殺説が、捜査当局、ジャーナリズム、法医学界それぞれを二分する前例のない事態となった。半年後、警視庁は自他殺を特定しないままに捜査本部を閉じ、1964年の時効成立で迷宮入りとなった。

何か世論誘導、情報操作のようなものが行われたのではないか? 百科事典マイペディアで【下山事件】を引いても次のように記述されている。

政府は当初〈他殺と推定される〉との見解を発表、日本共産党、労組の犯行を想像させる報道もなされた。出ばなをくじかれた国労が、反対運動の態勢をととのえられないうちに、第一次人員整理が実施された。その後警察は自殺と発表したが、解剖にあたった東大法医学教室は死後轢断とし、自殺か他殺か不明のまま捜査が打ち切られ1964年時効となった。

と記されている。

ブリタニカ国際大百科事典でも、下山総裁の死因についての3つの説に言及している。

〃抻訥の「発作的自殺説」

古畑種基による「死後轢断説」

政府側の「左翼による謀殺説」


だという。 銑だとしているが、実際にはいあると百科事典マイペディアは記している。

ぞ硝楡仰イ砲茲襦屮▲瓮螢軍謀略説」

さて、今週末放送予定の「未解決事件」で、どんな新しい事実が明らかにされますやら――。
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フレイザーの『金枝篇』を総括するような内容になります。

『金枝篇』では、その著者であるジェームズ・G・フレイザーは、宗教なるものが成立する以前の多神教時代にあったという呪術世界を各地に残っていた伝承から浮かび上がらせた。これには少し補足説明が必要になりそうですが、先ず、宗教と呼ぶに値しないような呪術的習俗が世界中に散らばっていたという具合に捉えればいい。ギリシャ神話の世界に宗教というものが見い出せるのかというと、やはり、見い出しにくい。神は描かれており、その神を慕う人たちはいるのだけれども、宗教なのかと言われれば、宗教とは言えないものであろうとなる。また、一神教が普及する以前には多神教が世界中を覆いつくしていたと考えられる。ケルト民族が有していた遺物であるとか、或いは縄文時代の遺跡であるとかも、ああした遺跡を残すだけの文明なり文化を有していても、整備された宗教が成立されていたようには思えない。とはいえ、おそらく神概念はあったでしょうし、それに付随しての呪術(咒/しゅ)はあったのでしょう。それらが出尽くした後に、洗練された宗教体系のようなものが出来上がってゆく。

宗教というのは、その教理を磨き上げてゆくだけではなく、その教団運営を伴うものになってゆく。そうして宗教が普及し、教団も大きくなってゆき、信者も増えてゆく。なので、途中から教理や信仰よりも、教団運営に軸足を移してゆく。言い方は悪いが、まぁ、商売化していってしまうという訳です。護符であるとか御守を販売して、その利益で運営していくようになる。祈祷をするからといって金銭を要求するようになる。割り切っていれば問題はないのですが、歴史からすると、しばしば腐敗した宗教というものが起こる。金儲けに走ってしまう訳です。いわゆる霊感商法とかですね。キリスト教の歴史でも、贖宥状(しょくゆうじょう)という名の免罪符を販売するなど、資金集めに奔走するという運営側面がある。まぁ、免罪符をカネで買えるようになってしまっては純粋な信仰心はどうなるんだろうって思いますが、まぁ、そういう腐敗も内部に抱えているものが宗教なのでしょう。

また、キリスト教が爆発的に普及したのはキリスト教を支配に利用したい国家と、その国家の庇護下で普及したいという教会勢力との思惑が一致した事が深く関係している。これは西洋世界だけではなく、どうも東洋世界に広がった仏教にも同じ事が言えてるところがあり、日本の奈良仏教は明らかに国家鎮護の目的で導入されていますが、つまり、仏教を利用して政府の統治力を補完しようとしたという事でもある。これは日本史に限った事ではなさそうで、シルクロードのオアシス国家や、中国の王朝や北方騎馬民族なども仏教を利用して統治に利用していた節がある。国家仏教。

そのような経緯を辿ってゆく中で、信仰の本質は変わらなかっただろうかという問いをフレイザーは『金枝篇』の中で展開させている。より焦点を絞ると、テーマはキリスト教であり、キリスト教の行って来た事柄と、彼らが蛮人と呼ぶ蛮習との間には、相違点以上に共通点の方が多いことを暗示したとフレイザー本人も認めていたらしい。平たく言えば、「キリスト教も、そうではない蛮人と呼ばれる人たちも同じようなものを信じている」という事に気付いていたが、その部分を掘り下げるのは読者らの仕事であるという風に片付けたのであった。

ここからは『初版 金枝篇』(ちくま学芸文庫)の吉田信の〈訳者あとがき〉で語られている部分になりますが、つまり、人類は「呪術」⇒「宗教」⇒「科学」という風にコマを進めてきたものだと考えている。このことが実は啓蒙思想とも関係しているんですね。「無知蒙昧」の「蒙を啓くべし」というのが啓蒙思想であった。「神殺し」とは、即ち「宗教殺し」であり、それを行なって科学主義へ向かう事が叡智であるのように考えられてきた。しかし、それは本当だろうか?

引用します。

人間の精神は、「呪術」→「宗教」→「科学」という進化の過程を辿る、というものである。当然「われわれ」は「宗教」から「科学」へ至る過渡期にいるということになるのだが、フレイザーはここで、「呪術」から「宗教」への移行が、自然界に対する客観的な働きかけという点では、一種の後退であったと見ている――呪術師は観念連合(連想)の重要性を正確に見て取っていた。(『初版 金枝篇』下巻509〜510頁)

23日に再放送されていたEテレ「こころの時代」の中でも、阿満利麿(あま・としまろ)明治学院大学名誉教授が、「宗教、宗教と言ったところで、私的な欲求を叶える為に念仏を唱えるというのでは、それは呪術に過ぎず、それでは宗教とは言い難い」とレクチャーした一コマがあった。この言葉は端的に宗教と呪術の差異を論じているようにも思える。確かに「お金持ちになりたいので馬券が当たりますように」のように祈ったり、念じたりする行為は、呪術でこそあれ、信仰ではないし、宗教でもないのだ。阿満教授の場合は真宗、親鸞、歎異抄がテーマとして語っていたものですが、私的願望を叶える目的で唱えるではなく、「南無阿弥陀」という念仏の中に〈一切〉とか〈すべて〉が込められているのだと説く。念仏を唱えるにあたっては余計な事を考える必要もない。

フレイザーに戻りますが、現代人は「自然を改変する」とか「自然を支配する」という、その方向性で宗教に進み、更には科学主義へと進んできてしまっている。いつの間にやら、ちゃんと自然と向き合わなくなってしまっているのだ。今日ともなると「正義」や「正しさ」にしても、かなり恣意的な思惑を絡めての公的抑圧の強い正義論になっている。
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30日にNHK総合が「下山事件」を取り上げるという。確かに私が小学生の頃から戦後最大のミステリー事件なんて扱われてきた事件であった。予告編をチラと視たら、どうやら松本清張著『日本の黒い霧』上巻(文春文庫)の内容は、イイ線を突いていたらしいと気づく。何がどう怪しくなってきたのかというと占領下の日本では想像以上に謀略が入り乱れていたらしい事が分かってきてしまったというところがある。

当時の世界情勢からすると、米国は対ソ戦に向けて動いており、どうもレッドパージという現象そのものは米国本国でも、或いは日本でも、かなり大袈裟に宣伝されて惹き起されたものであった可能性が高くなっている印象がある。松本清張は1960年代前半に、その問題をやっていたのだから恐れ入る。我々はなんとなく、進駐軍というとGHQを連想し、進駐軍は確固たる命令系統を持っていたものだと思い込まされている。そうではない。しかし、そうではない。GHQ内にも派閥はあったし、接収したダイヤモンドや貴金属の横領事件は米国人と日本人とが入り乱れるようにして乱発していた可能性があり、どうも昭和鹿鳴館などと呼んでいた場所では愛人関係などによって、日本人女性が実質的なスパイの役割をさせられていた可能性なども濃厚に思えるのだ。敗戦国ってのは、まぁ、そんなものなのかもね。そして、やはり、松本清張が絡んでいますが「帝銀事件」があった。その期の不可解な事件の裏側にはGS(民政局)とG2(参謀部第2部・作戦部)にCIC(軍諜報部)、ESS(経済科学局)、更にはCIA(米中央情報局)などが入り乱れて諜報や謀略を展開していた可能性が低くない。

記憶に頼ってしまうと、近年、下山事件についての機密文書が開示され、それによると殺害した遺体を列車で轢断したものなのか、それとも生きたまま列車に轢かれたものなのかという論争で、後者が正解であったかのような解釈が進んだ。つまり、下山国鉄総裁は生きた状態で轢かれたのだから自殺であり、事件性はないのような解釈になっていた。正直、もう、蒸し返しようもないのかと思っていたのですが、実際に松本清張が書いた『日本の黒い霧』に目を通すと、余りにも不審な点が多いことに改めて気づくことになった。

今月の30日に「未解決事件File.10」として「下山事件」が取り上げられるのであれば、予習しておいてもいいんじゃないだろうか。

事件発生の前日、7月4日の午前10時頃に、鉄道弘済会本部に謎の人物から電話がかかっていたという。電話の主は「一言伝えておくことがある。今日か明日、吉田か下山かどっちかを殺してやる。お前が騒いだり人に云ったり邪魔をしたらお前も生かしておかない」といい、「お前は誰だ?」と問い返すと、「誰でもいい。いずれ革命の時期が到来したら戦場で白黒をつけよう。その時になったら分かる」と言って電話を切ったという。

「吉田」とは当時の吉田茂首相を指しており、「下山」は初代国鉄総裁でもあった下山貞則氏を指していたのは歴然であった。国鉄は人員整理を迫られており、その人員整理の役を引き受けて初代の国鉄総裁に就任したのが下山貞則であった。何故、「吉田」が「吉田茂」なのかというと、事件前日となる7月4日の午後一時過ぎに下山総裁は官房長官に連れられて吉田総理に会う為に官邸を訪問。しばし、面会をしていたが、途中で下山総裁は「重要な会議があるから」と言って、面会を中座して帰ってしまったという一件があった。この謎のイタズラ電話も4日であった。翌5日に行方不明となり、6日朝、下山総裁は無惨な姿で発見された。

当時は国鉄人員整理を巡って国鉄労組の声が強まっていた。しかし、なんとしても人員整理を断行する必要性があった。そして、そこにレッドパージの思惑が重なった。つまり、「労組運動などというアカが、どんなに怖ろしいものか」を印象づけたい進駐軍系の諜報機関が介入。そして「下山総裁を惨殺したのはアカの仕業である」というプロパガンダを流布させたのではないかという考えられた訳です。これは決して荒唐無稽な仮説ではなく、対ソ連を睨んでの日本経営であったという視点が重要になってくる。人体実験で細菌兵器の研究をしていた石井部隊の処遇がウヤムヤなものになったように為政者中枢には為政者中枢の論理が別次元で作用していたと考えてゆくと、否定できない話になってくる。

更に事件当日となる5日19時から19時半までの間に東鉄労組支部の、とある労働員が支部の部屋にやってきて、そこに居合わせた多数の労働員に「いま電話が掛かって来たが、総裁が自動車事故で死んだそうだ」と伝え、その場では歓声が上がったという。下山総裁は5日の午前中に銀座三越本店で行方不明となり、翌6日早朝に轢断遺体として発見されている。「下山総裁に死んでほしい」と思っていた人物が居たという一コマなのか、もしくは、犯人は労組関係者である事を匂わせたい諜報組織の仕業なのか、如何にも胡散臭い話になっている。

更に、その事件が発生したと思われる5日の田端機関庫手詰所の夜勤者は誰であったかを調べる為に捜査員が宿直簿をみたところ、何故か7月1日から5日までの期間の頁が毟り取られていたという。

更に、新宿の甲州街道寄りの陸橋に「下山を暁に祈らせろ」とか「下山を殺せ」とかいう文字を書いたビラが貼ってあったという。このビラは下山総裁が行方不明になる2〜3日前から貼られていたものだという。


人員整理を恐れた労組の関係者の中に、国鉄総裁を惨殺した実行犯がいると考えるだろうか? 松本清張は、これらは組織化された謀略班の仕業であろうと推理している。確かに、電話にしてもビラにしても如何にも「犯人は労組関係者です」、「アカは狂暴なのです」と言わんばかりのアクションに思えてしまい、何かしら情報工作の匂いがしてしまっているようにも思える。国鉄労組の中に「左翼的粋がり」の気風があったとしても、さすがに国鉄総裁の惨殺を事前に予告するというのはリアリズムとしては考えにくい。

下山総裁の遺体には、列車に轢かれただけでは付着する筈のない大量の機械油が付着していた。不思議な事に着衣にはさほど機械油はついておらず、遺体の方に黒っぽい油成分がついていた。列車に轢かれた場合にも微量の油が付着する事はあるが、あきらかに検出された量が違うという。従って、下山総裁はどこかで何者かに連れ去られて、そこで衣服を剥がされ、殆んど裸の状態で殺害されたのではないかという。

事故現場には衣服と遺体とがあったが、油の付着具合からすると下山総裁は事前に裸の状態で殺害され(ひょっとしたら拷問を受けて殺害された?)、その遺体を線路の上に置いた。顎をレールの上に乗せるようにしてうつ伏せに置かれ、その上に着衣が掛けられていたのではないかという推理をしている。顔面が左右に轢断されていたとの事で、レールの上に顎を乗せるような状態で轢かれたらしい事が推測できるのだという。仮に自殺であったなら、自殺するにあたってレールの上に自らの顎を乗せた形で、走行してくる列車に轢かれるという手法を、そもそも自殺者が選択するだろうか…という問題にもなってゆく。 

更に日暮里駅の便所の荷物置台に謎の落書きが発見されていたという。「5.19下山缶」という全く意味不明な落書きが発見されていたという。どうも田端機関庫内では不可思議な事が多く、下山総裁の死との因果関係が考えられる訳ですが、松本清張は、これを「5日の19時に下山総裁の遺体を缶に入れた」の意味ではないのかと指摘している。その缶とはドラム缶、もしくは遺体を収納するのに都合のいい大きな四角い缶であり、その缶の中に遺体を入れていたので下山総裁の右半身にはべっとりと油が付着していた――と。
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控えおろう! 我が後ろに控えておられるのは、誰あろう、かの大岡越前守であるぞ! 何? 大岡越前を知らぬだと? 大岡忠相(ただすけ)じゃ。ん? まだ、分からぬのか?

大工が三両入りの財布を紛失してしまった。その財布を左官が拾って、大工に渡そうとした。すると、大工は「一度、失くした財布を受け取る訳にはいかねぇ。拾ったあんたのものだろう」と言い張って受け取りを拒否した。左官の方は「そりぁあ、とんでもねぇ話だ。これは間違いなくあんたが落とした財布じゃねぇか。この三両入りの財布を、あっしがウマウマと懐に入れるような不義理な真似は出来ねぇ」と拒否した。大工も左官も双方ともに意固地になって、互いに意見を譲らないって訳だ。そこで大岡越前の登場よ。大工と左官を並べて、その前に大岡越前だ。大岡越前がどう裁いたのかというと、自らの懐から一両を取り出した。財布の中には三両だ。その三両に一両を足して、四両にしてみせた。そして、こう言った。

「二人で2両づつ受け取れ。さぁ、遠慮するな。大工は3両を持っていたが2両になってしまって1両の損。左官は黙ってもらっていれば3両だったところが2両になってしまって1両の損。そして、この儂は、今、このフトコロから1両を出してしまったので1両の損。つまり、三方一両損だ。わっはっはっはっ! これにて一件落着!」

この三方一両損(さんぼういちりょうぞん)の大岡忠相じゃ。まだ、分からんのか? うーむ、じゃあ次だ。或る時、産みの親と名乗る女と、育ての親と名乗る女との間で幼子を巡っての争いが起こった。どちらも「この子は私の子です」と言って譲らない状態であった。大岡様は、その争いを、こう裁いた。「その子を互いに引っ張り合え。勝った方こそが、親子の絆の強さの証明をした事になり、つまり、勝利した方こそが、その子の母親である」と。産みの親と、育ての親とが、その幼子の両腕を引っ張り合った。引っ張り合わされた幼子は「痛いよ、痛いよ」と泣き叫んだ。その時、育ての親の方は我が子が痛みを訴えているのを見て、思わず引いていた腕を放したんだ。すると、そこで大岡様が声を上げた。

「勝負あった! 我が子が痛いと泣いているのを見て、堪らず手を放してしまった親心こそが本物の親子の絆と考えるべきである! これにて一件落着!」

とな。

さぁさぁ、それでは大岡様、前へ。そして、どうぞ今回の夜泣き焼きそば一平ちゃん事件をお裁き下さい。


余が大岡忠相である。此度の事件、吟味いたした。甲と乙との問題じゃ。先ず、乙が賭博にハマって6億8千万両の損失をつくり、その借金の支払いに追われていた。その乙とは二人三脚でやってきた甲がある。甲は、なんじゃ、蹴鞠や撃球(げっきゅう/ポロ競技)みたいなものの名人で天下に名前を轟かせている人物だという。そして甲には、その特技がある故に莫大な富貴を持っていた――そういう前提がある。そして甲は乙が莫大な借金を抱えていると打ち明けられた。その上で「二度と乙が賭博に手を出さないと約束してくれるのであれば、その借金は立て替えてあげましょう」と応じた。更に、その後に状況が変わり、闇賭博に関与していたとなると甲にも何某かの咎が及んでしまう可能性があると考え直して、証言を翻した。つまり、甲は何も知らなかったところ、賭博で借金をつくった乙が甲から金を盗んで借金の返済に充当していたという話にすり替わった。これらの過程に何の疑念の余地があるであろう? 現時点では何が確定的とも言えぬが、物事の流れというものは、そういうものだ。

そもそも甲には何の罪もない。友情から乙を助けようとしただけだ。事実を歪曲して乙の借金を肩代わりしていたという行為の、どこに道義的責任があろうか。むしろ、天晴れと称賛すべき仁義を見せたという事ではないのか。余が裁いた三方一両損裁判でも、大工と左官が互いが互いを庇い合うようにして金銭の受け取りを拒否した事例であった。これは「史書」にも記されている伯夷と叔斉という兄弟の伯夷叔斉(はくいしゅくせい)の逸話とは「聖とは何か」や「仁とは何か」を説いた逸話が挿入されている。また、その話は、此の大八島の神話にも移入されている。第23代の顕宗天皇と第24代の仁賢天皇で、これは兄弟で引計(おけ)と億計(おけ)であったが、この兄弟は互いに皇位を譲り合った。「仁」や「徳」を強調する意図で用いられているのが歴然である。

法律を守る為に友人を見殺しにする者と、友人を見殺しにする訳にはいかないと発想し、行動してしまう者の道徳観の差異が、この問題を複雑にしている。甲には罪がないのは歴然である。そして甲に罪があるかどうかという観点に固着する態度というのも実質的には法律に重きを置き人道を軽んじる観点である。

通常、人は、その者の人格と向き合っている。人格的には糞野郎だが規律を違える事がないという人物よりも、人格的に尊敬できるが規律を冒してでも友情を重んじる人物に好感を抱くものである。

因って、甲の仁義溢れる行為を、なんとか法の網に引っ掛けよう、引っ掛けてやろうと蠢動している法治主義の過剰こそが問題であると裁定いたす。此度の甲の行為についてであるが、誉め称える要素こそあれど、貶める要素は微塵もない。甲を罰しようなどと目論んだり、その法治主義を支持する態度の蔓延は、実質的には南蛮由来の「いんとれらんす」とやらの問題、つまり、非寛容・不寛容が世界を浸食してしまっていると嘆くべき問題である。

そして今、夜泣きしているであろう乙に対してであるが、基本的にカップ焼きそばなのであれば「夜店の一平ちゃん」よりも確実に「ごっつ盛り焼きそば しお味」である。これにて一件落着!
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阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)とは、簡単に説明すると吉備真備(きびのまきび)や玄掘覆欧鵑椶Α砲蕕箸箸發棒称716年7月に遣唐使となり、翌717年に入唐。太学に学んだ後は官吏となり、唐王朝に仕えていた。この時期の唐の皇帝は楊貴妃に溺れた事で知られる玄宗であった。唐では名前を変えており、唐での名前は朝仲満(ちょうちゅうまん)、朝衡(ちょうこう)、晁衡(ちょうこう)。

阿倍仲麻呂は唐に於いては、文人として名高い李白、王維らとの親交も深めた。玄宗からも目をかけられたらしく、とんとん拍子で出世し、西暦733年には帰国を唐王朝に上申したが玄宗は帰国を認めなかった。玄宗は異国からやってきた、その青年の才能が流出する事を惜しんだ、の意だ。実際に阿倍仲麻呂は唐王朝で秘書監、衛尉卿(えいいけい)などの役職に就いており、最終的には従三品(じゅうさんぴん)にまで出世を果たしてしまっていた。この従三品とは、陳舜臣の説明によると「閣僚に次ぐほどの地位」であったという。

唐王朝は世界帝国であったので外国人を重用していたが、それでも従三品は異例であり、外国人としての秘書監になるだけでも頂点を極めたようなものだという。

西暦750年に遣唐使として入唐した藤原清河(ふじわらのきよかわ/遣唐大使)と吉備真備(きびのまきび/遣唐副使)は玄宗皇帝に謁見した。

西暦753年正月元旦、唐王朝が執り行なった拝賀式で、或るトラブルが発生した。宮中席次を巡るトラブルであり、トラブルを起こしたのは日本の大伴古麻呂(おおとものこまろ/遣唐副使)であった。

席順は玄宗皇帝を中央にして、諸国の代表が並ぶ席順になっており、東の筆頭は新羅で、その次が大食(タージ/アッバース朝)、西の筆頭は吐蕃(とばん/チベット)で、その次が日本という並びであった。この並びに大伴古麻呂がクレームをつけたというトラブルであった。大伴古麻呂に言わせれば、「新羅は日本に朝貢している国であり、その新羅が日本よりも席順が上位であるというのは承服できぬ」という抗議を唐王朝の外交部に申し入れたのだ。

冷静に考えると、如何にも日本人らしい傲慢さが出ている。アッバース朝の席順を考えれば、単に距離の近い国から順番に並べているとも言える。また、当時の新羅は唐王朝の服属国であった。決定的な事を言えば、その拝賀式が行われた90年前となる西暦663年には白村江の戦いをしている。唐・新羅連合軍vs.百済・日本連合軍で戦争をした過去もある。それなのに日本人から「新羅よりも低くみられている、この席順は到底、承服しかねる」と厳重抗議されても当惑するに決まっている。

丁寧に当時の歴史解説を読んでゆくと、例えば吉備真備は「優雅な振る舞いをしていた」と中国でも評価されたし、阿倍仲麻呂になると「唐書」東夷伝及び「新唐書」東夷列伝に伝記まで残されており、更には(玄宗の没後ですが)空海が破格の扱いで待遇される切欠になったのは、異次元レベルの達筆であった事、また、文章も尋常ではなく上手かったので唐の地方役人が仰天してしまったという逸話が残っている。おそらく、この唐の時代、特に玄宗皇帝の時代は殊更に文明を尊ぶ文人気風が強かった時代なのだ。

唐王朝では、その猛抗議を受けた為に会議を開き、新羅と日本の席を入れ替える事で結論とした。が、裏では新羅に対して唐の呉懐宝という人物が「日本の使節は直ぐに帰国予定なので手柄となる土産話が必要なのでしょう。そこを、考えてやりましょう。我々は身内なのですから」と言いくるめたのが実際であったらしい。唐王朝側に、このトラブルについての記録は残っていないが、日本へ帰国した大伴古麻呂は、この事を報告しているので日本には記録も残っているという。

(因みに、この宮中席次騒動を起こした大伴古麻呂は、その後に皇太子廃立を巡る政争に巻き込まれて橘奈良麻呂と反乱を計画したとして処刑に遭っている。)

もし、席次問題を事前に阿倍仲麻呂に相談していたなら…という話にもなりますが、もう、その頃には阿倍仲麻呂は唐王朝の中でも重臣クラスになってしまっていた――と。

当時の日本でも積極的に仏教を取り入れており、日本で本格的に仏教を広めるには、僧たちを授戒する律師が必要だという問題が起こっており、唐から律師を招くことができないかという話が持ち上がっていた。西暦742年の事、入唐僧(にっとうそう)の栄叡(ようえい)、普照らは、唐でも高僧として知られていた鑑真に渡日を要請していた。ここで鑑真がすんなりと日本にやってきた訳ではない。

西暦743年、鑑真は揚州大明寺にて初めて渡日を要請された。既に鑑真の名声は高かったが、鑑真は即座に渡日を決意した。弟子たちは難色を示したが鑑真は

是は法事のためなり。何ぞ身命を惜しまん

と説き伏せたという。鑑真の渡日が難航した事は有名だ。そもそも唐王朝は許可しなかったのだ。しかし、鑑真の渡日に賭ける熱情は強く、12年間の歳月に五回の失敗を繰り返し、六度目の航海で西暦754年に日本にやってきたのであった。

第1回と第4回の渡日計画は役人に阻止された。第2回と第3回は強烈な風浪に阻止された。第5回も例によって風浪に晒され、栄叡(ようえい)は死亡し、鑑真も失明した。

それでも鑑真の日本行きは敢行されたのだ。

西暦753年の事、つまり、そして先に紹介した拝賀式での宮中席次トラブルが起こった年である。藤原清河、大伴古麻呂らの遣唐使団は日本への帰国を予定していた。ここで唐で高官になってしまっていた阿倍仲麻呂は藤原清河とともに鑑真に会った。鑑真を迎えたいという日本側と、是非とも日本へ行ってやりたいという鑑真、そして実は日本を離れて36年もの月日が流れていた阿倍仲麻呂も、藤原清河らとともに遣唐使船に乗って日本へ帰国するという決断に踏み切ったのだ。


西暦753年1月15日。その日は満月であった。そして日本行きの遣唐使船は蘇州地方の揚子江南岸の港に停泊していた。その船には、こっそりと揚州を抜け出してきた鑑真が乗り込んだ。これは鑑真にして六度目の渡日挑戦であった。

阿倍仲麻呂の方は、日本に帰国するに当たっては事前に明州の海辺(現在の寧波/ニンポー)で別れの宴を開き、当地の人たちとの別れを惜しんでいた。その宴の途中、のぼってくる月を見た安倍仲麻呂は歌を詠んだ。

天(あま)の原 ふりさけ見れば春日(かすが)なる 三笠(みかさ)の山に 出でし月かも

上記の阿倍仲麻呂の歌は百人一首にも採用されている有名な和歌だという。全訳古語辞典を参考にすると、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に出でし月かも」とは、以下のような意味であると解説してある。

異郷の地である、ここでも空を仰ぎ見ると、今、まさに月がのぼってくる。この月は懐かしい故国日本の春日の三笠山からのぼった月と同じだなあ――の意だという。


改めて西暦753年1月15日の蘇州の港――。阿倍仲麻呂と鑑真らを乗船させる事になった遣唐使船団は4隻で構成されていた。第1船に藤原清河と阿倍仲麻呂らが乗船した。第2船には大伴古麻呂と鑑真が乗り込んだ。一説に鑑真は密航に該当するので本来であれば第1船に乗船すべきところ、さすがに日本と唐との関係に影響を及ぼすかも知れないという理由で、第1船ではなく第2船に乗船する事になったという。

運命は怖ろしいまでに皮肉であった。この帰国船団の第1船は海上で暴風に遭って安南(あんなん)に漂着した。「安南」と聞いてもピンときませんが、これ、なんと現在のベトナムの事だ。唐王朝の支配権はベトナムまで支配が及んでおり、安南都護府を置いていた。第1船の遭難は長安にも知れ渡ることになり、親友であった李白は阿倍仲麻呂(晁衡)が死んだものと思い込み、「晁卿衡を哭(こく)す」と題した挽歌をつくったという。(この李白は杜甫と並んで中国最高の詩人と呼ばれている。)

陳舜臣著『十八史略』五巻465頁から訳詞を引用すると、以下のようになる。

日本の晁卿、帝都を辞し

征帆一片、蓬壺を遶(めぐ)る

明月返らず 碧海(あおうみ)に沈み

白雲愁色 蒼梧(そうご)に満つ



第1船は流れ流されベトナム(安南)に漂着していた。幸いしたのかどうか、結局、藤原清河と阿倍仲麻呂は唐の都、長安に戻る事となり、阿倍仲麻呂だけではなく藤原清河も唐王朝に仕える事になった。この二人は日本に帰国することなく、唐で没している。阿倍仲麻呂は西暦770年没、藤原清河は西暦779年没。その後の唐王朝は「安史の乱」が発生し、帰国できる状況でなくなってしまったのであった。阿倍仲麻呂については、とうとう帰国を果たせなかったものの、詠んだ歌から望郷の念が強かった事が分かる。そんな阿倍仲麻呂に対しては死後60年以上も経過した西暦836年に「正二位」が贈られた。阿倍仲麻呂は717年に入唐し、そのまま、770年で没するまで期間を唐で過ごし、その生涯を終えた――。

大伴古麻呂と鑑真を乗せた第2船は、西暦753年12月に薩摩国に到着。出発したのは同年1月であった事を考慮すると、11ヶ月もの歳月を経ての日本の薩摩へ着いたという意味であった。そして鑑真は翌年2月に入京を果たし、その後は東大寺で授戒と伝律に専念をした。更に唐招提寺を建立、「大和上」(だいわじょう)の号を賜った。
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玄奘三蔵とは、いわゆる「西遊記」に登場する三蔵法師を指している。陳舜臣著『十八史略』(講談社文庫)に拠れば、玄奘の俗姓は陳であり、祖父は北斉の朝廷に仕えて国士博士になった事もあるという陳康(ちんこう)であり、父の陳慧(ちんけい)にしても学識高く、地方行政官からは官職に就くように勧められていたが病気を理由に断り続けた人物であったという。この官職になりたいと野心を持たない事が、当時は世人から高く評価される風潮にあった。

隋王朝に於いては仏教は国家仏教であった。高僧は国家の職員として任命される制度で、詔勅によって27名の層を度する事となり、数百人が志願に殺到したが、その中で最年少の12〜13歳で得度したのが玄奘であった。

少年玄奘は長安に身を寄せた後に成都へ拠点を変えた。長安は幾らか治安が良かったが、それでも仏法研究に専心できる環境ではなかったので成都に移った。成都に数年ほど滞在した後に、「もはや、この地で学ぶべきことはなくなった」として長安へ戻った。

成都から長安に戻る際には、長安行きを申請しても許可が下りなかったという。日本のテレビドラマ「西遊記」では女優・夏目雅子さんが玄奘三蔵役を演じましたが、玄奘三蔵は眉目秀麗にして天才的な頭脳の持ち主だと受け止められていたので、仏教界だけではなく俗界の人たちも青年になっていた玄奘を他所の土地へ行かせたくないという具合に圧力が役所にかけられていたのだという。

玄奘は「仏法の為にどうしても長安に行かねばならないのです。それが衆生を救う道なのです」といった事を言って説得するが許可は下りず。その為、玄奘は法律に違反する形で成都から脱出。長江に入るときには商人の団体の中に紛れ込んだという。

その長安にて当時随一の高僧・法常から教えを受ける事ができるようになった。しばらくすると、玄奘は仏法の疑問点を百カ条に書き出した一覧表をつくって疑問をぶつけてみたところ、法常は「それら疑問を解く人物は、この国には一人も居ないだろう」と返し、「もしかしたら天竺の高僧であれば…」と続けた。これによって玄奘は天竺行きを決意する。「天竺へ行く」と玄奘が言い出すと、何人かの同志が賛同し、連名で時の政府は唐王朝の太宗(李世民)に許可願いを出したが、これも却下された。天竺に行くには西域を通らねばならず、玄奘という青年僧侶が優秀だというのであれば、尚更、そんな危険な事はさせらないという判断であった。

「不許可」という結論が下ると、同志たちは天竺行きを断念した。しかし、玄奘だけは諦めなかった。蜀(成都)から抜け出した際にも法律を侵しての脱出であったが、玄奘が見据えていたものは仏法の為であり、衆生の救済の為なのだ。仏法の為であれば、国法を侵しても差し支えないだろうという考え方をした。(と、少なくとも陳舜臣は描いている。)

西暦629年(貞観三年)秋、玄奘は26歳だったとの事ですが長安を発った。これは密出国をしたという事を意味している。玉門関(ぎょくもんかん)という関を超えて、何日もかかって沙漠を歩き、当時の伊吾国へ。この伊吾とは現在の哈密(はみ)だという。80年代にNHK特集が放送した「シルクロード」では映像が紹介されていた訳ですが、その道程というのは、人っ子ひとりとして誰にも会わず、目印になるのは砂礫に埋もれている行き倒れになったであろう人たちの人骨が道しるべ、そのような荒涼とした沙漠を30日以上も歩いていると精神的な変容が起こってしまうという。山賊も狼も出現するような場所であるが、その現実的脅威とは別に何もない沙漠を30日間以上も単身で踏破する事は、かなりの困難を要するという。

その後、玄奘は更に西へ向かい、高昌国(こうしょうこく)に入る。西域にはイラン系の国々が多かったが、この高昌国は漢族の王朝であった。国王は麹文泰(きくぶんたい)と言った。この高昌国王の麹(きく)氏は、隋王朝の煬帝(ようだい)の時代に行なわれた高句麗遠征にも参加、隋王朝が滅んで唐王朝になってからも中原と友好関係を保っていた。麹文泰は、唐の高僧が旅をしていると聞きつけると、玄奘を自国の高昌国に招待した。しかし、玄奘に会った麹文泰は、これまた玄奘を手放したくないという感情が沸き上がり、玄奘に高昌国に留まるように要請した。しかし、玄奘が天竺行きを諦める訳もない。麹文泰は玄奘に対して強制送還もチラつかせながら説得するが、それでも玄奘は固辞した。すると国王の麹文泰は「そうまで決意が固いのであれば仕方がありませんな。では、天竺からの帰途に、この国に立ち寄り、三年間ほど滞在し、仏法を講じると約束してくれませぬか」と条件を切り替えた。玄奘は、そこで妥協し「必ず立ち寄り、御恩返しをいたします」と応じた。

高昌国王は、沿路の諸国に見せる為の紹介状を現状に手渡した。そこには国王・麹文泰の署名入りで「この僧は私の義弟にあたります」と記してあった。この高昌国王の紹介状が玄奘の天竺行きを大いに助けたというのであれば、意義深くもありますが、実際にはそうではなく、高昌国は諸国と険悪な関係にあったので、さほど紹介状は役に立たなかったという。

高昌国から更に西へ向かい、亀茲国(きじこく/クチャ)に入る。この亀茲国は鳩摩羅什(くまらじゅう)を輩出した国である。漢訳仏教については新訳というと玄奘三蔵の名前が挙がるが、旧約といった場合には鳩摩羅什になる。この亀茲国は幻の仏教王国であり、日本の法隆寺の宝物殿になる五弦琵琶は世界で唯一の現存する五弦琵琶という事になるというが、その五弦琵琶が亀茲国近くの仏教遺跡の天井に描かれている映像が「シルクロード」に収録されていた。この亀茲国には玄奘は60日間ほど滞在したという。

亀茲国を出た玄奘は、タクラマカン砂漠の北側、天山山脈の南側、天山南路を通ってカシュガルへ出る。このカシュガルで天山南路と旧街道である西域南道とが合流する。(仏教遺跡で有名な敦煌や楼蘭は西域南道沿い。)

カシュガルからはパミール高原を超えるというルートになりますが、パミール高原とは7千メートル級の高原地帯であり、その名前にダマされてはいけない。天山山脈、ヒンドゥークシュ山脈、カラコルム山脈、崑崙山脈、そしてヒマラヤ山脈、実に六つの山脈の結束部であり、高原というよりも〈大山塊〉だという。また映像では氷と砂から成っているのが確認できる。

パミール高原のクンジュラ峠からギルギット、イスラマバード、ラホールという進路で玄奘は天竺入りを果たしたものと思われますが、ギルギットからイスラマバードへの向かう道中には、おそらくガンダーラがあった。現在のペシャワール付近だという。その一体になるとアレキサンダー大王の東征がやってきていた地域となる。

そこからは東へ向かって天竺に入った。玄奘が天竺についてみると、思いの外、仏教が廃れている事に気付く。完全には廃れていないが、隆盛とは言えない状況であった。ブッダが悟りを開いたというブッダガヤは更に東へ行かねならないない。そのブッダガヤは仏教最大の聖地である筈であったが、そこに玄奘が足を運んでみるとブッダが座っていたとされる金剛宝座は砂に埋もれており、付近に安置されていた観音像も砂の中に埋もれていたという。「シルクロード第2部第4集」では石坂浩二が「その様子を見て玄奘は泣き崩れた」とナレーションしていた。

それでも玄奘はナーランダ寺院(学林)に6年間ほど滞在して、戒賢(かいけん/シーラバドラ)に師事して唯識論を習得した。玄奘はナーランダ寺院が選んだ成績優秀者の十傑にも選出されるなど、その評価は高かったという。

玄奘は天竺の仏教遺跡を見て回るなどし、大般若経全6百巻を含む諸経論75部1335巻を持って帰途へつく。玄奘が長安に帰着したのは西暦645年で、これは日本史では「乙巳の変」、蘇我入鹿・蝦夷親子が中大兄皇子と中臣鎌足に討たれた年になる。玄奘三蔵の天竺行き、その往復に費やした期間は16年間で、26歳の時に長安を発ち、戻って来たときには42歳であったという事になる。「16年も」にも感じるが「16年しか」にも感じなくもない。

玄奘三蔵は西域南道のルートで帰国したという。これはパミール高原からカシュガル、ホータン、敦煌を経て長安へ行く最短ルートであった。もし仮に高昌国王・麹文泰との約束を果たすのであれあば、天山南路を通るべきであったが、それよりも南のルートを通ったという事である。しかし、これには意味があった。玄奘は北インドに滞在している頃に、高昌国が滅びたという話を耳にしたものと思われるのだそうな。

高昌国王は、玄奘が立ち寄って間もなく、実は西暦630年にあたる貞観4年12月に入唐していたという。しかも、例の紹介状を玄奘に持たせたが役に立たなかったのは、高昌国が周辺諸国と揉めていたからであった。揉めていたのは焉耆国(えんきこく)といい、西域南道にあるオアシス国家であった。西域南道を復活させようとしていた焉耆国と高昌国との間では小競り合いが続いており、玄奘が役に立たなかったのは、焉耆国での事であった。何しろ、敵対している国王の義弟だという紹介状の内容だったのだから快く歓待してもらえる筈もなかったのだ。

西暦632年(貞観6年)の事。唐王朝は焉耆国の要請を承認して西域南道の復活を許可していた。高昌国王の麹文泰は、そうであるにも関わらず、焉耆国に戦争を仕掛けたのだ。唐王朝からすれば、どちらも朝貢国である。更に言えば、高昌国の王家は漢族であり、僅か2年前には唐入りをしていた。なので高昌国王・麹文泰は戦争をしてもお咎めはないだろうと過信したのだ。唐王朝では対応に苦慮して麹文泰による入唐しての謝罪を命じたが、麹文泰はこれにも従わなかった。麹文泰は隋王朝に比べれば唐王朝は大した事がなかったから軍隊を差し向けて来ないだろうと、これまた非常に甘く見積もってしまった。しかし、この唐王朝の太宗(李世民)は、単に中原王朝の皇帝であるだけではなく、北方騎馬民族から可汗の称号をも与えられていた、いわば「天可汗」であった。唐王朝は東突厥を高昌国へ差し向けた。これにも高昌国はタカを括っていた。麹文泰は西突厥と親戚関係を結んでいたので、きっと西突厥軍が救援に来ると算段した。しかし、西突厥は動かなかった。結局、唐王朝に従っていた東突厥軍に高昌国は攻め滅ぼされ、その名を歴史から消し去ってしまっていたというのが顛末であった。

つまり、玄奘が約束を果たそうにも既に高昌国は、この世に存在しなくなっていたのだ。

さて、玄奘は、国法を破って天竺行きを敢行したものであった。玄奘の帰国は貞観7年正月七日だったという。太宗(李世民)は玄奘の帰国を歓迎し、盛大に祝いたいので早く戻るようにと急かしていた。しかし、実際には高句麗遠征で太宗は長安に居ないタイミングで玄奘は長安に帰還したという。重臣の房玄齢らが玄奘を盛大に出迎えた。帰国後の玄奘は訳経に心血を注ぎ、中国や日本の仏教に多大な影響を与えた。そして西暦664年、推定62歳で没した。


文中に「貞観」(じょうがん)という年号を敢えて記しましたが、この「貞観」という年号は日本にもありますやね。どういう事かというと、この李世民(太宗)の時代に使用されていた非常に縁起のいい年号、安泰であった時代の年号として有名だったので、日本でも採用されたのだという。広辞苑にも記してあった。
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先週もしくは先々週に放送されていたNHK「クローズアップ現代」では、教育虐待がテーマであった。石井光太著『教育虐待』(ハヤカワ新書)に目を通した際に少しは触れたテーマであったが、何故か思潮は、この問題を取り上げたがらないよなって思う。

簡単に言えば、親が我が子の指針に強く干渉してしまい、殊に学歴信仰と相俟って親が希望する通りの成績を上げられない我が子に苛立ち、スパルタ教育的な虐待に走った挙げ句、我が子の反撃に遭い、殺人事件も実は数件ほど確認できている。親による愛情なのだという風に論じる事も可能であるが、実際問題としては〈異常レベル〉であり、専門家の指摘などからしても親が自分の果たせなかった何か我が子に押しつけようとしたり、或るいは自分と同じような道を歩ませようとしたりするケースが多いが、実は単なる猛烈な親のエゴイズムではないのかという問題だ。そのテの問題は読売新聞の「人生案内」でもしばしば取り上げられているような気もする。

「クロ現」では、次の指摘もあった。日本と韓国については国際機関から或る指摘が行われており、教育についても社会全体にしても過当競争になっているのだという。このテの「日本だけ」とか「日本と韓国だけ」のような批判があった場合には大騒ぎをする事からすると、少しは騒ぎになってもいいような気がしますが、基本的にはマスメディア近辺の人たちが喜ばない情報なので取り上げないのでしょう。

テレ朝「羽鳥慎一モーニングショー」では、人手不足の問題を取り上げた際に現在は企業は若者の離職を防止する為に「オヤカク」なるものがあるのだという。これは「親確」の意味であり、新規採用にあたって企業が内定を出していても、学生が「親に反対されているので…」を理由に内定辞退をしたり、早期退職をしてしまうので、企業側は新卒採用に当たっては、その親御さんを説得する必要性が高まっているのだという。さすがに過干渉なのではないのかという気もしますが、時勢からすると、現にそうなっているらしい。

そんなに親から期待されて、その重圧に押しつぶされることなく、実際にやっていけるものなのだろうか。まぁ、頼りになるのは親ぐらいしかいないという事情の裏返しにもなっているのでしょうけど、この辺りの事情は、明らかに日本や韓国、或いは中国といった東アジア圏の文化が関係しているような気もしますけどね。でも、提唱される政策は相も変わらず欧米を模倣しましょうになっているという捻じれを感じなくもない。昨今では思潮としてはデンマークやスウェーデンなどの北欧諸国が人気だ。でも、その裏側にあるのは「高福祉社会にすべきだ」という政治的イデオロギーなのも明白で、或る種の無いものねだりにも思える。産業界はバイタリティーのある逞しい人材を求めているのでしょうけど、日本社会にある各人が求めているものは「社会的ステイタス」であり、不自由しない高報酬、それと見栄とか社会的な体面でしょう。

韓国社会に顕著ですが、実際問題としては身分カースト社会であり、エリートになることだけが希望になっているという訳です。日本は韓国ほど露骨ではありませんが、その実、サブカル史で言えば「〇金&〇ビ」、「勝ち組&負け組」、「ヤング・エグゼクティブクラス」(=ヤンエグ)、「草食男子」、「上級国民」、「ハイクラス転職」etc.だし、それに憧れるのも無理はない。要は、凄まじい勢いで二極化が進行しているのだ。そこで漠然と、皆が皆、そちらを目指す事になるので結局は過当競争になる。


先日、米アカデミー賞のニュースがありましたが、現在の日本で誇れるものはアニメーションとか特撮とか、そういったサブカルチャーの分野なのだなと感じた。後は、野球とかサッカーなどのスポーツ選手として大成する人たちが登場している。しかし、これは日本の産業全体みたいな事からするとギャップも感じてしまう話でもある。かつて、ソニーがタイムズスクエアを買収して反感を買ったとか、東芝の電光掲示板が街並みを席巻してしまっているとか、日本車が強すぎて貿易黒字が問題になっているという時代があった事からすると、確かに日本経済、日本企業の凋落みたいなものは明らかでもある。喫緊では半導体で巻き返すのだというけど、将来的にはどうなるのかも微妙だ。グローバリズム資本主義とは、資本だけがピョンピョンと国境を超えて移動できてしまう性質があり、実際には金融資本主義であり、その金融資本主義は「政治力そのもの」と密接に関係している。複雑な国際情勢の中での政治力であり、これらを考慮していくと日本の将来が厳しい事も自明であったりもする。

野球選手になればいい、サッカー選手になればいい。ミュージシャンでもアイドルでもお笑い芸人でもユーチューバーでもなればいい。でも、そもそも、そうした分野での成功者になるのは狭き門でしょう。大スターの裏側には何千何億の成功できなかった人たちが存在している。高リスク高リターンのギャンブルだ。マスメディアは、それらのスターを各人に見せつける。「君もなったらいいじゃん」と。しかし、そうそうなれるものではないのは自明だ。しかも、それらが志向しているのは超越的な個人の成功であり、産業なり、社会全体なりの成功からは少し距離がある。「そんな事はない。彼等の活躍は私の励みになった」とか「明日の活力になった」のような言辞で締めくくられるのが通例ですが、残念ながら他人の快挙は他人の快挙であり、他人の「富と名声」は「他人の富」と名声だ。顧みれば、わたしやあなたが何かの偉業を達成した訳でもないし、生活を向上させる出来事でもない。

若年層から中高年までの間で推し活がブーム? でも、それって誰の為に? 

時代に翻弄されて生きているだけだという事も否定できない気がするよ。「映像の世紀バタフライエフェクト」で、スターリンの粛清のクダリが取り上げられていた。ソビエトの民衆は偉大なる指導者スターリンの死を悼んだという。スターリンが行なった大粛清を知らされていなかった人たちは、確かに偉大な指導者を失ったと悲しんだのでしょう。情報操作といえば情報操作の賜物ですが、似たような現象は西側諸国でもスケールは違えども起こっている。真相や実相とは異なる形で、既定されてしまった語り口だって少なくないよなって思う。抑圧されているのに、その抑圧されているという自覚に乏しかったりするのが、案外、現代社会のような気もする。

厄介な事に社会そのものが過干渉にして、その上、抑圧的になってしまったという事はないだろうか? これは同調圧力の問題にも通じているようにも思える。「こうあるべきなのです!」のような人たちをのさばらせ過ぎてしまったという事ではないのかな。次から次へと規制規制、規制の連発で、更には厳罰化厳罰化のオンパレードになっている。あれもハラスメントなら、これもハラスメント。挙げ句、いつだって「私は可哀想な被害者なのです」と持って行ってしまうタイプの主張ばかりが優遇されるのが昨今の風潮だ。真の抑圧者は誰であるのか、どういう思想信条の人たちであるのかを、よく考えるべきだ。

希望がない、希望がない、絶望の時代だっていうけど、確かに、それは自分で勝手につくるしかないのでは? 先日、取り上げた「牛飼い」と自称する人の哲学に沿えば「希望なんてものは自分で見つけるしかない」ってのはホントかも知れないしね。
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NHKスペシャル「古代史ミステリー第1集」を視聴。前方後円墳と前方後方墳との分布から、前方後円墳を卑弥呼を女王として立てていた邪馬台国連合であるとして、その女王国と争っていた狗奴国は前方後方墳の勢力であったという仮説には、驚きました。うーん、しかし、3〜4年前にも古墳の形状を考える書籍を目にした時には四隅突出墓の方にウェイトを置いて出雲勢力を意識した内容だったので、なんだか意表を突かれたようにも感じてしまった。

AIによって各地で未発見の前方後円墳が発見されているという。番組内でも東北地方の前方後円墳らしき地形に辿り着く様子の映像が流されていましたが、あのAI解析による手法というのはヒストリーチャンネル「古代の宇宙人」でも紹介されていた。ナスカの地上絵みたいな、いわゆる地上絵はナスカ高原の地上絵ほど精巧なものではないにしても、図形程度であれば相応に各地で発見できてしまうのだという。

女王国と争っていた狗奴国の正体が東海地方に勢力を持っていた勢力だったであろうというのは、それなりに魅力的な仮説のような気がする。どうしても狗奴国については南九州地方の熊襲であろうという考え方が半ば定着していたので、そこを捉え直すと、なるほどなぁ…と思う。位置関係的に邪馬台国畿内説だと、熊野を以って熊襲のように比定してきたのだと思いますが、紀伊半島から東海地方、更には東北地方まで太平洋に沿って狗奴国は展開していたという訳だ。それが出雲と考えればいいのか、もしくは神武王朝もしくは物部王朝と捉えればいい訳か。

とはいえ、「古代史ミステリー第1集」には違和感を感じた部分もあった。シシド・カフカさんに卑弥呼を演じさせての再現映像部分になりますが、先ず卑弥呼の年齢については「既に年齢は長大にして」とあったような気がする。シシドカフカさんぐらいの年齢で女王になったのかどうかは微妙といえば微妙な気もする。決定的に怪しいぞと感じたのは、次の箇所で、つまり、倭人伝には「卑弥呼には女婿なく、一人の男弟があり、その男弟のみが卑弥呼に謁見できる」といった具合の記述があったと思う。しかし、再現映像では卑弥呼を中心にして両サイドに重臣たちが居並んでいるという、さながら重臣会議みたいなものを開いているという描写があった。

また、纏向遺跡で注目されている遺跡の発掘が進んでいる事は新聞記事で目にした事があった。なるほど年代の特定方法に技術革新があり、その遺物の柱の分析から3世紀中頃に建てられた遺跡だと判明したというのは分かる。しかし、それを以って、ここが卑弥呼が拠点にしていた邪馬台国の拠点であったという風に推し進めてしまっていいのかどうか、更には付近にある箸墓古墳を卑弥呼の古墳だと誘導してしまっていいものかどうか、その辺りは戸惑いも受けながらの視聴となった。

箸墓古墳は、崇神天皇に関する箸墓伝説の主、つまり、三輪山の主と婚姻し、その三輪山の主の正体が蛇であると知ってしまい、思わず声を上げてしまったところ、以降は蛇が現れなくなってしまい、自分のホトを箸で突いて死んだという、いわば「箸墓」伝説を持つ姫の古墳ではないのか? それが卑弥呼と簡単に紡いでしまっていいのか? 「卑弥呼には女婿は無かった」とする倭人伝との矛盾はいいのか? 本来は箸墓古墳に埋葬されているのは、その箸墓伝説の主である倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)だとされてきた伝承との整合性をつけられるのだろうか? 

どうしても気になってしまったので少し調べてしまった。だって、魏志倭人伝に描かれている卑弥呼の像と、箸墓伝説って、ホントに結び付けられるものなのかって思うし、その魏に使いを出したという人物が3世紀に畿内にあった正統な勢力だという風に考えていいもなのかどうか。当然、現時点では、魏に使者を出したのは、どこか地方の一勢力の可能性だって捨て切ってはいけないのかも知れないし。

倭迹迹日百襲姫と表記して「やまとととひももそひめ」とは、余りにも難解な名前だ。これは省略せざるを得ないとなってモモソヒメのように略されている場合もある。これは、どういう名前なんだろう。日本歴史大辞典で、これを引いてみる。すると次の事が判明する。

古事記では「夜麻登登母々曾毗売」という文字で表記されているというから「ヤマトトモモソビメ」と読むらしい事が推測できる。分解すると「ヤマト」+「?」+「モモソ姫」で良さそうだ。では、中間のごちゃごちゃっとした部分は何なのか? 【ト】か【トト】とか【トトヒ】の三種のパターンが考えらえるって訳か…。

それに続けて、重要そうな指摘があった。古事記では「孝霊天皇の皇女」だと記してある一方で、〈日本書記では「孝霊天皇の皇女」という記載のほか、「孝元天皇の皇女である倭迹迹姫(やまとととひめ)と同一人物であるともいわれる。〉と解説されている。

この難解な名前の理由は、どうも孝霊天皇の皇女と、孝元天皇の皇女との名前が掛け合わされてしまっている可能性があるって事なのかな? 孝霊天皇の皇女の名前が「モモソ姫」であり、孝元天皇の皇女の名前が「トト姫」になるという訳か。なるほどねぇ、そうなると卑弥呼がモモソ姫であり、モモソ姫を継いだという宗女・台与とか壱与のように語られてきた人物はトト姫って事になりますワな。

また、古事記の方に記してある「三輪山伝説」では「活玉依毗売」(いくたまよりびめ)の話になっているというから、これが箸墓の逸話になる訳だ。となると、三輪山が狗奴国の勢力で、その女王卑弥呼が率いていたという邪馬台(国)連合は新興勢力だったという事になる。ああそうか。この問題は、そもそも「邪馬台国」を「ヤマタイコク」と読まされてきたのが間違いの元凶で、その漢字であれば「ヤマトコク」って読んだ方が素直な読み方だ。そういう指摘を目にした事があるし、私もそう思う。何故に「ヤマタイコク」という発音で読むのだとされてきたのか? 

因みに、孝霊天皇は第7代で、孝元天皇が第8代となり、これはつまり、「欠史八代」であり、実在していたかどうかにあまり執着する必要性はない。辻褄合わせの為につくられた神代の天皇だと考えるべきだというのが定説だから。とはいえ、おそらく、先住していた勢力の痕跡があったので、そうなっているのでしょう。

出雲王朝とヤマト勢力との対立構造に囚われてきたので、頭が混乱しますが、一先ず、出雲の問題は横に置いておくと、三輪山信仰に基づいていた旧勢力が狗奴国であり、それと激戦を繰り広げていたのがヤマト勢力という風に整理した方が良さそうですかね。突き詰めれば、三輪山伝説がイズモに所縁のある古層であったという事になるのかも知れませんが、それを同時に考えようとすると混乱が生じてしまうのだろうね。

拙ブログ:神社辞典で推理する(中編)

拙ブログ:箸墓古墳の被葬者は?

あー、どことなく漠然としてですが、イメージらしいものが湧いてきたような気もするかな。卑弥呼と台与は、ごっちゃにされているんじゃないかな。実際にはシャーマニズムに長けた巫女であって、現実的な政治とは、あの再現映像とは異なり、かなり神託を専業にしていた何かだ。それが有力者の娘であった。後世に考えたときに、その出自を語らねばならないから孝霊天皇の皇女であったとか、孝元天皇の皇女であったのように辻褄合わせをした――と。確か、伊勢神宮にも内宮と外宮とによって構成されており、外宮の事は豊受大神(とようけおおかみ)と呼ぶ。この「トヨ」という音が北九州地方を指す「豊」であり、卑弥呼の後を継いだという「トヨ」に通じ、更には「トヨタマビメ」にも通じる。関裕二氏の著書だったと思いますが「トヨタマビメ」とは「豊の国の玉依姫」(豊国の巫女)の意味であり、確かに、それが意味しているのは、神懸かりをするシャーマン的な巫女を連想させる。
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