若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

行田市 丸墓山古墳の桜

2017年04月08日 | 行田市


4月6日(木)我が家から歩いて10分ぐらいに位置する丸墓山古墳の桜を見に行って来ました。



丸墓山古墳は、埼玉県行田市にある古墳であり、直径105m、日本最大の円墳として有名です。

また、近年では昔地元の方が植えたソメイヨシノが成長し、桜の名所として親しまれています。



「丸墓山」という名の由来については、「麿墓」(まろはか)が訛って「丸墓」になった、あるいは丸い墳丘からその名が付いたなどの説がありますが、いずれにしても江戸時代の書物に「丸墓山」が登場することから、当時からすでにその名で知られていたことが確認できます。



その後、丸墓山古墳は思わぬ形で歴史の舞台となります。



豊臣秀吉が天下統一を進める1590年、家臣の石田三成は、秀吉の備中高松城水攻めにならい、忍(おし)城を水攻めにします。

その際、城がよくみえるこの古墳の上に陣を張ったのです。



現在駐車場から古墳へと続く道は、その際築かれた堤防の跡といわれています。

いわゆる「石田堤」です。



西国を制した豊臣秀吉は関東責めに入り、16万の大軍で小田原城を包囲します。

「この際 小田原方に味方するすべての城をつぶせ」と豊臣秀吉から命じられた石田三成は2万の軍を引きつれ、館林城、羽生城などを次々に制圧し、残るはこの地の忍城のみとなります。

三成の軍勢は2万、忍城方総大将城代成田長親(のぼう様)はわずか500の軍勢で壮絶な戦いが始まります。



成田長親は領民たちに木偶の坊から取った「のぼう様」などと呼ばれても泰然としている御仁。

従来の武将とはおよそ異なるが、なぜか領民の人心を掌握していました。

地の利と士気の高さから、緒戦は忍城側の圧勝でした。

三成は、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定します。

この水攻めに対する長親の策は、敵兵の前で田楽踊りを披露することでした。

三成軍が総攻撃を行おうとする矢先、小田原城が落城したとの知らせが成田勢にももたらされ、忍城も開城しました。

小田原城落城時までもちこたえた支城は忍城だけでした。

( 和田 竜 作“のぼうの城”より)


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