若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

会津若松ーレトロな町並みと野口英世ゆかりの地を歩く

2017年06月04日 | 旅行


5月12日(金)妻と二人で郡山に住む孫の運動会を見るついでに会津若松まで足を延ばし、レトロな町並みと野口英世ゆかりの地を見て歩きました。

7時38分大宮発の東北新幹線に乗り込み郡山駅には8時33分に着き、郡山駅から磐越西線に乗って10時56分に会津若松駅に到着です。



駅から「大町通り」を南に進み「野口英世青春通り」に入る手前の交差点(大町四つ角)を左に折れると見えてくるのが「鈴木屋利兵衛商店」です。

鈴木屋利兵衛は創業安永年間(1772~1780年)とされる老舗で鶴ヶ城(会津若松城)の城下町の中でも街道が交差する大町四つ角付近にあることから、かなりの豪商だった事が想像されます。

戊辰の戦いには薩長軍の屯所となった重厚な土蔵商店建築で、なまこ漆喰と上部の黒漆喰の店構えは歴史を感じさせます。



「中央通り」を越えて少し歩くと「竹藤民芸店」です。

竹藤の創業は1624年(寛永元年)、今の店舗は築後約160年の会津最古の商業建築です。

お店のある一之町通りは当時から会津一番の繁華街で、会津の商人は一之町通りに店を出すのが夢だったと言われています。



再び「大町四つ角」に戻ります。

大町四つ角は江戸時代には、二本松・白河街道、米沢街道、越後街道、南山通り(下野)街道の五街道の基点となっていました。

大町四ツ角から西に延びる「七日町通り」を歩きます。

この七日町通りは観光客はもちろん、全国の商店街からも注目を集めています。

一時衰退した商店街が再生したのは、明治から昭和初期の繁栄を極めた時代に建てられた蔵や洋館、木造商家が奇跡的に残っていたからで、大正浪漫漂う町並みはホッとした気分にさせてくれます。

写真は「太郎庵 七日町菓房」です。



ジャズが流れるレトロな「やまでら茶屋」です。

会津のお米(コシヒカリ)100%で作った、茶屋団子がお薦めだそうです。



「渋川問屋」は120年以上もの歴史をもつ元海産物問屋です。

会津の地で長く受け継がれている郷土料理を囲炉裏などを眺めながら戴くことができるそうです。



昼食は七日町通りから1本路地に入ったところにある「中むら」で食べました。

落ち着いた雰囲気の店で年配の先客がゆっくりと十割手打蕎麦を味わっていました。

もちろん私も妻も非常に満足のできるものでした。



会津は、医師を志した野口英世の青春の場所でした。

七日町通りのレトロな町並みのあとは野口英世のゆかりの地をまわってみました。

まず訪れたのが「洗礼の地(若松栄町教会跡地)」です。

ここは、野口英世が洗礼を受けた場所で、初恋の人・山内ヨネ子と出会った教会とも言われています。

英世はヨネ子に幾度となくラブレターを送り、教会牧師から叱責されたほどでしたが、ヨネ子は振り向かなかったそうです。



英世は小学校では成績優秀でしたが、父親が酒飲みだったこともあり、家庭は貧しく、高等小学校以上へ進める金銭的な余裕はありませんでした。

それを救ったのが、猪苗代高等小学校の教頭であった小林栄先生です。

小林先生は、私財を投げうって猪苗代高等小学校に入学させ、英世に学問を続けさせたのです。

「末廣酒造 嘉永蔵」は小林栄先生の親族が経営しており、英世が海外で成功を収めて帰国した際に立ち寄り、大歓迎を受けたとのことです。



小林先生や友人たちの助けもあり、若松の会陽医院の渡部鼎医師より左手の手術を受けることが出来たのですが、その会陽医院の跡地が「野口英世青春通り」にある「野口英世青春館」です。

1階は「会津壹番館」という喫茶店になっていて、2階は「野口英世青春館」として関連資料が展示されています。



この野口英世青春通り沿いには英世の銅像が立つ「野口英世青春広場」があり、さまざまなイベントも行われています。



青春広場の先には英世が洗礼を受けた「若松栄町教会」があります。

1911年(明治44年)に建てられた、白とブルーが愛らしい教会で、国登録有形文化財に指定されています。



最後に、野口英世青春通りを通り抜け、「小澤蝋燭店」から「鶴ヶ城」へと向かいました。

鶴ヶ城のたもと西栄町に、江戸から続く一軒の老舗ろうそく屋が「小澤蝋燭店」です。

明治初期の建物は、いにしえの浪漫を感じさせ、この店の絵ろうそくは今も武家時代と同じ製法で作られており、炎が消えにくいのが特徴だそうです。



国道118号を南に20分ほど歩くと愈々「鶴ヶ城」に到着です。

鶴ヶ城は今から約630年ほど前に、その前身ともいえる東黒川館を葦名直盛が築いたのが始まりと言われ、戊辰戦争では約1ヶ月に及ぶ攻防戦に耐えた名城として、その名を天下に知らしめました。

明治7年に取り壊されましたが、昭和40年に再建、平成13年には「干飯櫓・南走長屋」が江戸時代の工法・技術を用いて復元されました。

平成23年には赤瓦へのふき替えが完了し幕末当時の姿を再現し、現存する天守閣では国内唯一の赤瓦の天守閣となっています。


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