2017年11月18日

マルチプルアウトとわかりやすさ

占い師などが曖昧な言い方をして、後からもっともらしく話しを肉付けする、こういう手法をマルチプルアウトということを最近知った。マルチプル multiple とは多数の、とか多様な、という意味がある。どのようにでも言い逃れできる、くらいのニュアンスだろう。
マルチプルアウトは占い師に限らず、いろんな分野に見られる。賢明な人物の発言は基本的にマルチプルアウトを踏まえているのだと思う。

ベルリオーズが交響曲の一部にグレゴリオ聖歌を効果的に引用している。絶妙な場面で出てくるグレゴリオ聖歌は聴き手に何らかの示唆を与える。これは引用された曲自体に具体的な意味がある訳でなく、それが聴き手のインスピレーションを励起状態にしたということでしかない。我々聴き手はこういう暗示効果に各自解釈を付ける。これは正にマルチプルアウトである。

マルチプルアウトは聴き手の人生体験と深い関係があり、同じ作品を聴いても体験の差により感想が異なる。即ち表現は抽象的なものの方が解釈の幅が大きくなるが、抽象性に比例してわかりにくくなり、逆に具象性が高まると解釈の幅が限定されるが、明快なわかりやすさを得ることができる。

情感で理解できる部分と論理性によって語られるべき部分とから成る物が芸術である。情感だけで理解できる作品は商業的なところに軸足がある。興業としての規模は商業性と比例関係にあり、興業規模の大きさに比例して商業性が高まる。興業リスクは小さいほど芸術表現に軸足を置ける。こういう意味でオペラは芸術性に徹して難解にするには限度があり、大衆興業という面を排除できない。

ハイドンを地味だと考える好楽家は多い。それはハイドンの音楽が劇性やドラマ性に乏しく、パトロンとの関係から本音を隠しているということに関係している。一方でハイドンを評価する人にとっては作品としての論理性、数理的美しさ、構成の妙などが優れているとされる。ハイドン以前の音楽は純粋に音楽自体で語っていたと考えるべきである。調性や和声のような音楽自体の動きや関係性の面白さを目指したものがあの時代までの表現である。徐々に劇性やドラマ性、主観的表現という分野が開拓されていき、ベートーヴェン以後の音楽はこういった装飾を帯びたものが持て囃されるようになる。劇性や主観性といったものは音楽に明快なわかりやすさをもたらし、それ以前の音楽は「退屈」と見做されるようになった。

演奏も同様で、私は演奏に主観性や過剰に劇的な味付けを求めない。初見の作品で譜面に書いていないアッチェレランドをされても、それが演奏者の解釈なのか、作曲者の解釈なのか、誰にもわからない。作品に寄り添う演奏こそが最上のものであると考える。

音楽、料理、政治。わかりやすい物が選択され続けている背景には、我々が理解しようと努力することを怠っている実態がある。わかりにくい物を敬遠する大衆に対し、歩み寄った人、即ち迎合した人が評価される時代に我々は危機感を持つべきではないか。
難解なことを理解したり、困難なことを乗り越える気概を持たない人間が、世間の評価を決めるシステム。それは民主政治そのものである。

今年もマエストロの素晴らしい人生に感謝。




ormandy at 00:33│Comments(0) オーマンディ 

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