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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

月を読む!(小説家になってみる 5/10 )

2015-08-26 | 第十章「今ここでの恩寵」

 今日は天気が悪いようで見えないと思うが、月は十三夜である(今年の十五夜の名月は9月27日、十三夜は10月29日)。日本では、月を愛でる習慣があるが、旧暦8月の十五夜と、旧暦9月の十三夜である。正月も日本では一つではないことも考慮すると、縄文時代からの風習と律令制ができたころからの風習の二本立てなのかなと妄想してしまう。

 特に十三夜は栗名月、芋名月などとも呼ばれ、縄文時代の匂いがプンプンする・・・

 さて、どんな文化も暦を持っているように思う。縄文時代にも栗名月や芋名月があるということは暦があった一つの証拠だと思う。

 どんな時代にも時間は流れ、空間が広がっている。それを特定するためには時間の観念が必要で暦は絶対必要だ。文化をもつものにとって暦は必要だと思う。特に四季のはっきりし旬のものを大切にしてきた縄文時代の祖先は、かなり正確な暦があったはずだ。その証拠に、ストーンサークルなどで、正確に方位を掴んでいることがある。また、大湯遺跡などは縄文時代の天文台とも言われる。

 日本では、記紀や萬葉集などに月読み命なる神様が登場するが、その記述は殆どない。削除されてしまったかとも思える。律令制の弊害かもしれない。ウケモチノカミ(穀物の神)をツキヨミは殺害するというストーリーは縄文系の文化と弥生系の文化の戦いを暗示しているようにも思えてならない。

 さらに、月読みという名前から当然想像されるのだが、ツキヨミは暦を司る神様だったようだ。時間を意識させる神。これは実に深い意味を持っているようにも思う。例えばキリスト教の神は「在る神」とも言われる。当然時間と空間の中に現存する神である。何か、とっても似ているように感じるのは私だけだろうか。

以下、参考までに萬葉集のツキヨミに関する歌を・・

天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月読の 持てるをち水 い取り来て 君に奉りて をち得てしかも

訳: 天の梯子も 長くあれかし 高山も なおも高くあれかし 月読の 持っている若水を 取って来て 君に捧げて 若返っていただきたい

 日本文学全集 萬葉集(3)を参考にしました。

 小説家になってみる 5/10

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