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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

180°解釈を変えると・・・・・(異文化と愛 ② 6/10)

2014-10-23 | 第九章「愛」

 今日は、冷たい雨が降り寒い。そんなことで、ちょっと憂鬱になったが、「マッサン」では鴨居社長がワインの爆発騒動の中でも何か元気!そして、その元気をいただいたようだ。

 物事を、どう解釈するかは実に不思議なところがある。U先生の「生き甲斐の心理学」では、よくコップの水の喩えがでてくる。同じコップに残っている水を観ても、もうこれしか残っていないと解釈する人もいれば、反対にまだこれだけ残っているではないかと解釈をする人もいるのだ。

 さまざまな現象を、どう解釈するかは実は本人次第であり、観点や本質の把握の仕方などにより、それこそ180°展望が違ってくることも。

 心の問題で重要な生育史上の愛の原形に関しても、解釈の仕方で随分違ってくることがあり、これまでネガティブに意識していたのが、ふと解釈が変わり宝物に変わることも。

 小学生の低学年の時に溺れそうになり父に危うく助けられたことがあった。それは自分の大きな体験だったが、周りの人から「よかった!」とか「お父さんは凄かった」等言われても、何か屈折していてネガティブな印象すらもっていたところがあった(感謝はいちおうしていたが)。父と子の関係は意外に複雑で、どこか心に蓋(抑圧)をしていたりする。それは自分でも訳がわからないところだった。それが、この「生き甲斐の心理学」を学びつつ、自己を受容していくと、その時の抑圧していた感情がふとよみがえったり、あるいは時間の距離を置くことで、幼いころに凍結処理していた解釈が変わってきた。

 あんまり思い出したくない過去も、のんびりと無理のないところで反芻していると、宝物のような体験に変わることがあるのだ。

 さて、こうした生育史の見直しにちょっと似ているが、今、縄文時代や縄文語、アイヌ語、遺伝子研究、比較宗教学などに興味深々なのだ。傍から見ると変なおじさんというところだが、生育史から考えると深い必然性があるように思えてならない。

 私は、幼児洗礼を受けたカトリック信徒であるが、青春時代は理科系男子で、デカルトの神の証明理論などに到底納得せず、トマスよりも疑惑感が強くカトリックから離れてしまった。しかし、宗教や哲学はどこか好きで、東洋思想などに凝った時期もあったが・・・。それが、40代後半のある悩み多い日に突然クリスチャンに返り咲いてしまったのだ。

 このことは、自分でも実に不思議で、それをU先生の心理学に求めていたが、追及しているうちに最近は、日本人の心性、縄文の心性、現世人類の心の原形研究も必要に感じるようになってしまった。今朝もアイヌ語の単語を親しみをこめていろいろ眺めていたり。

 何故私が(おそらく4万年とか日本に住みついている祖先をもつ私が)キリスト教がなじみにくいといわれている日本で、意識してクリスチャンになってしまい、クリスチャンとして生きて行こうとしているのか?この謎は私には今までの常識では解明できないことだと思っている。

異文化と愛 ② 6/10

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