縄文小説がまだ完成もしていないのに、第2作のイメージが時々頭の中に浮かぶ。今は東京、茨城、神奈川、山梨、長野が舞台なのだが、縄文はそれだけでない。今、日々妄想しているのは北陸である。翡翠の鉱山があり、ウッドサークルなどの縄文遺跡がある。関東圏の文化とも当然繋がっているはずだ。
沼名河の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾ひて 得し玉かも 惜しき君が 老ゆらく惜しも (3247)
日本古典文学全集 萬葉集(3)を参考に訳すと
沼名川の 底にあったこの玉は 探し求めていて得た玉なのだ 拾い求めて 得た玉なのだ そのようにすばらしい 君が 老いゆくのが惜しい
戦後のあるときに糸魚川で翡翠が発見されるまで、遺跡で発見される翡翠は中国製と考えられた時期があったそうだ。この歌での沼名川は糸魚川ではないかと推定する研究者もいるようだ。この翡翠は、私の家の近くの縄文遺跡でも発見されたが、遠く三内丸山遺跡でも発見されたそうである。5000年前とかの交易品であったことは間違いないようだ。
このブログでも書いた、泉川(関西)に関係する歌に次のようなものもあった。
川の瀬の 激ちを見れば 玉かも 散り乱れたる 川の常かも (1685)
この泉川の伝説。甕が埋められたとか、あるが、とても興味がある。
しかし、昨日の手名奈の歌もそうだが、こうした水のイメージは女性のイメージにも繋がり、エリアーデの宗教学の本を読みながら人間のもつ普遍性というか、唸ってしまう。聖書にもサマリアの女という美しい話があるが、そのヤコブの井戸ともどこか繋がっているような感じを持ってしまう。
写真は広島の実家のそばを流れている川。
小説家になってみる 4/10