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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

忍野八海の清流はどこに流れ着くか?(富士山を想う 8/10)

2015-05-21 | 第八章「魂と聖霊」

 昨日は、実に久しぶりで映画「駆け込み女と駆け出し男」を鑑賞してしまった。なかなか良い映画で感動したが、ついでながら、4年前に行ったことのある東慶寺、腰越(鯵売り女の仕入れ先)、江戸・・・その地理感覚と徒歩の時間をいろいろ妄想してしまった。

 というのは、縄文時代という馬も牛もない、人力(歩くと舟で行く)だけの交通手段の時代をいろいろ妄想しているからでもある。馬や舟、荷車などが発達した江戸時代でも、東京から北鎌倉の約50kmを成人女性が、半日くらいで歩く。他にも不思議な魚売りが登場するが、毎日、腰越でとれた魚を片道10kmくらいの道を辿り東慶寺に売りに来る。考えただけで大変だが、それが当たり前だったのだろう。

 そんなことで、富士山に関しても交通としての川に興味深々である。先日も行った忍野八海は美しい富士山からの湧水が出る山中湖に近い場所であるが、いろいろ調べると縄文時代にはちょっとした湖であったようだ。そして、私が興味をもち実際に訪れた上中丸遺跡のある富士吉田市の小明見も同じように小ぶりの湖だった。後の時代の富士山の溶岩の流失等でこうした湖も消滅したようだ。しかし、これらの湖の跡地は、山中湖からの桂川と繋がり、今でも東に向かった後に大きく迂回して相模川となっていく。昔はあゆとかコイが沢山いた。

 縄文時代の相模川。これがどうなっていたかは、ネットで調べてもよくわからない。鶴見川や境川は今では別の川であるが、ある時代は繋がっていたともいわれる。流域が西遷したとも言われる。私の住む地域では、多摩川上流の大栗川が身近だが、境川や鶴見川上流も歩いていけるほど身近だ(江戸時代の感覚だが)。

 多摩は今では高速道路や鉄道の関係から都心と太いパイプで繋がっていたが、川が大動脈だった縄文時代は、神奈川県や東京東部と深く関係していたことが判る。同じ場所でも、時代により感覚が随分違う。

 多摩に住んでから、川の景色をいろいろ楽しむことも多かったが、縄文を勉強することで(他の時代でも良いが)、それだけでなく最終的に行きつく先を考える癖ができたようだ。すると、その川がちょっと違って見えてくる。これは川であったが、人間も何かにていて自分の死を考えると、今の自分にはっとすることもある。メメントモリとはそんなことかもしれない。ちなみに映画の駆け出し男の最終的に向かう先は九州ではなくXX。これも象徴的である。

富士山を想う 8/10

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