哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ新聞を読むのか(3)

2016-08-13 | yy52私はなぜ新聞を読むのか


バングラデシュで大勢の人が殺された。日本人もいた、となると、だれがなぜ、そんな遠い国にいたのか、どのように殺されたのか、知りたい。JICA(独立行政法人国際協力機構)という政府活動は知っているが、バングラデシュでどういう事業をしていたのか?まったく知りません。バングラデシュのテロリストはどういう人たちなのか?ぜんぜん知らない。いつもは知りたくもないのですが、事件が起こってしまった今は、知らないのはいやだ、という気分です。
自分がよく知らない世界の解説はすなおに納得できます。そうかそうか、そうなっているのか、といかにも本当の話と思えます。しかし、たまたま、自分がよく知っている分野の解説が書いてあると、ちょっと違う。今朝の一面に日本人宇宙飛行士の打ち上げ成功が出ていて二面は宇宙開発の解説ですが、背景はその通り、と思いつつも、その裏にはもっと重要な現実があるのだが、とか、裏の裏があって記者のだれも知らないのだな、とか思ってしまいます。
まあ、一般読者は裏の裏など知らなくてもまったく困らない。知らないほうがよけいな誤解をしなくて済みます。
週刊誌の裏情報などありますが、半分以上は作り話です。ソースはだれの情報か?よく内情を知っている人ほど、利害に関係しているので、事実は都合に合わせて作りたくなるものなのでしょう。
もちろん真っ赤なウソを書くことはしないようですが、上手にうわさを切り貼りしてつなげることで、おもしろおかしい図式が透かしみえるような書き方をしたくなるのでしょう。

第四面を開くとき、右手の親指と人差し指で挟んでいた一二面を素早く中指と人差し指の間で挟むように替えて、自由になった親指で三四面を挟みます。このとき、うっかり親指の圧力を緩めてしまうと、三四面がするっと落ちて、下手をすると一二面以外の新聞全体が手前に落ちてきます。
こうなると、あわてて戻そうとしても折り目の背中が元のように合わなくなってずれた重ね紙になってしまいます。その時の気分の悪さは、今朝一番の不幸と感じるくらいです。新聞の背中をホチキスで閉じる人の気持ちが分かります。ずれた紙はなかなか元に戻らない。背中がずれた新聞は気持ちよく読む気がしません。古新聞を読んでいるみたいです。
さらにあわててコーヒーを少し紙面にこぼしてしまうと記事の新鮮さはたちまちあせます。どうして毎日、世の中は同じような失敗を繰り返しているばかりなのでしょうか?人類の進歩というものがどこにも感じられません。

十五世紀にグーテンベルグが印刷技術を発明して以来、毎日、紙面をめくるという行為を全人類は営々と行ってきましたが、その気持ちは期待という言葉にぴったりです。次のページを見れば何か読むべきことが書いてあるのではないだろうか、という期待に満ちてページをめくる。
そのめくりが失敗して新聞がばらけてしまうとか、本を取り落としてどこのページか分からなくなってしまうとか、あります。デジタル本でも指がすべって違うところに飛んでしまう。この五百年間余り進歩していません。

朝刊をめくっていく。数十ページあります。その真ん中くらいに株式欄がある。十年前ならともかく現在、新聞で株価情報を見る人がいるのでしょうか?ふつう携帯かパソコンでしょう。高齢の非デジタル世代がまだ紙で見ているのかもしれませんが、年々先細りでしょう。しかしすぐにはやめられない。紙の新聞が時代錯誤になる将来を暗示しているかのようです。
株価情報は重要です。経済面でEU(欧州連合)危機の見出しが躍っているにも関わらず東京市場株価は上がっている。
新聞経済面の解説記事はいつも一周遅れで投資家には役立たないかのようです。逆に言えば、株価欄の数字だけが正直に現時点での企業の経済価値を伝えています。株価を見るほうが記事を読むより、現時点での、真実が分かる。
太平洋戦争敗戦直前まで株式市場は開いていて暴落はありませんでした。つまり一億玉砕の記事とは裏腹に株式市場は戦後復興を予見していた、といえます。
ちなみに、終戦数日前、長崎原爆投下の翌々日から「一億玉砕」に代わって「国体護持(当時の字体では國體護持)」という語句が新聞に大きく出てきます。当時、新聞社エリートも国家意思を共有していた、ということでしょう。







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