哲学の科学

science of philosophy

自分・ごっこ(3)

2016-10-01 | yy53自分・ごっこ


警官ごっこをする幼児は、警官という言語が意味する現実を獲得できますが、現実に警官にはなれません。幼児はそれを知っていて警官ごっこをしています。それが、そもそもの、警官という言語が意味する現実です。
ところが大人はなかなかそれを理解できない。大人にとって警官の現実というのは、給料がいくらであるとか、規則違反をすると懲戒されるとか、市民に信頼されるとかいうことが本質であって、そういうようなことは実は幼児の理解を超えることばかりです。幼児が理解する警官の現実とは何なのか?と大人は思ってしまいます。しかし、大事なことは幼児が警官という言語の現実を獲得することであって、その言語の現実とは、真実の真実かどうかではなく、(幼児が周辺の人々と話す場合に)皆が真実と思っているらしいと思えるかどうか、で決まることです。
幼稚園の先生やお友だち、ママやパパや家族など周辺の人々と(共有し共鳴することによって)通じ合う言語の現実を獲得することが幼児にとって最優先の必要であって、それが周辺にはいない遠いところ(例えば警察署内)での真実かどうかはどうでもよいことです。
真実でないものを現実と思い込んでしまうと、場合によっては、致命的な失敗に陥ることもあるでしょう。しかしそのリスクを冒してでも、とにかく今周りにいる皆と通じ合うことが、人間の生活上、最優先の課題です。そのような生活に適するように人類は進化したはずです。

ごっこ遊びを卒業する小学校低学年ころから、子供は他人の目を意識するようになる。自意識が芽生える。これは、他人と共有する現実世界の中にある自分の肉体を自分と思う(自分に憑依する)ようになるということでしょう(拙稿12章「私はなぜあるのか」)。
これを、自分というごっこ遊びを始める、ということもできますが、この自分ごっこは一生続きます。これは真正のごっこではない、現実人生ということになります。現実人生をごっこといってしまうと、先の例に挙げたサラリーマンごっこと同じような修辞法になってしまいます。これは子供がするごっこ遊びではありません。
身体の外にある現実に憑依しそれを内部に取り込む子供のごっこ遊びと違って、大人の現実人生はすでに身体の内部に埋め込まれてしまった現実世界の内部で動いていきます。正確に言えば、身体の内部に埋め込まれている現実世界の内部にある自分の身体を自分と思うことで動いていきます(拙稿24章「世界の構造と起源」)。
ちなみに、この入れ子になっている世界の構造は自覚できませんので、ごっこが自分の中でどう働くかも、私たちは自覚しにくい。内省によって自分というものを自覚しようとしてもややこしくて自覚することが嫌になります。そういう入れ子のような認知しにくい構造は自覚しないほうが社会生活はうまくいきます。
自分ごっこという表現は詩的表現としてはおもしろいところがありますが、実用上は使いにくい。混乱の危険がある修辞法です。本章のタイトルとして「自分・ごっこ」と中ポツを打ったのは、混ぜるな危険、というニュアンスです。「自分」も「ごっこ」も哲学要素を含み安易に取り扱うと危険な観念ですから注意喚起の趣旨で本章を書いてみました。■










(53 自分・ごっこ end)











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