哲学の科学

science of philosophy

マシンガンとスマートフォン(6)

2017-04-07 | yy56マシンガンとスマートフォン


現実の権力者たちがオルテガの本を読んで真のエリートに改心するはずもないので、実際は、個人力を持たない大多数の大衆ならびに個人力は大いに持っているものの精神的には大衆でしかない偽エリートの組み合わせで現代社会は成り立っているのでしょう。
真のエリートは教科書の中にしかいません、というニヒルな見方ですが、残念ながら大体当たっているようです。もちろんノーベル賞に値するほどの立派なリーダーや尊敬すべき有名人はいないことはありませんが、ごく少数のそれら孤立した精神的貴族に動かされるほど現代社会とそれを構成する大衆は腰が軽くありません。
現代社会の中で絶望的に個人力を失っている多数の一般人から見れば、真のエリートであろうが偽のエリートであろうが、有名人で個人力、つまり人におよぼす大きな影響力を持っていそうな少数の人々は、憧憬の対象であると同時に嫉妬の対象であるので好きでもあるが大嫌いでもあるのです。そんな人のきれいごとの教えに従うのは嫌という感情が強くあります。
エリートやそれらセレブのスキャンダルがマスコミで執拗に追及され、人々がそれを熱心に視聴する現象は、たしかに正義活動でもあると同時に大衆的なエンターテインメントでもあることは否めません。
古代ローマの詩人は、市民にはパンとサーカスを(panum et circensus)与えておけば十分である、と揶揄しましたが、このサーカスとは円形競技場に大観衆を集める競馬(戦車競走)や格闘技(剣闘士対猛獣)など娯楽スポーツ見物のことです。
個人力を持てない一般市民はテレビやスポーツ紙、週刊誌の提供するエリートやセレブの活躍に興奮し、同時にしばしばそれら有名人たちのスキャンダルを話題にし、あきれたり真相を追及したりして正義感を満足させ同時に娯楽スポーツ見物として楽しむ、という見方でしょう。
ローマ帝国の繁栄と平和がこのような大衆の生き方を産んだとすれば、現代先進国の繁栄の結果生まれた社会状況はそれに似ているところがあるのかもしれません。








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