哲学の科学

science of philosophy

マシンガンとスマートフォン(3)

2017-03-18 | yy56マシンガンとスマートフォン


戦時、軍隊は切実に兵士の個人力を必要としていますから、連戦連勝の場合、兵士は戦友を信頼し充実感を持ち続けられます。マシンガンを持ち仲間の安全を守る自分の個人力を確信することができます。
会社が急成長して連戦連勝している場合、充実した兵士と同じように社員は幸せです。自分の個人力を確信できます。しかし、平和になり兵士が除隊してマシンガンを手放した場合、あるいは会社が低迷しそこでも幹部社員になれず平社員か契約社員として時間を切り売りしている場合、仲間に認められ仲間から必要とされているような個人力が自分にあると感じることはできません。
今世紀が進むにつれて、ますます多くの、ほとんど大多数の人が、自分の個人力を感じることができなくなっているようです。個人力がここまで矮小化された社会は、実は歴史上ほとんどありませんでした。
昔の人は、槍や刀や、鋤や鎌や、ハンマーやのこぎりを持っていました。それらの道具を使いこなすことで仲間に認められ必要とされました。今の人はスマートフォンを持っている。しかしそれで、どれほど仲間に必要とされる働きができるのか?
現代、私たちが必要とする生活物資やインフラや安全システムは、会社や警察や役所によって供給されています。しかしそれらは組織であって個人ではありません。それぞれの組織の内部にはごく少数の個人力の優れたエリートがいるに違いありませんが、それらの人々の割合は、非常に小さい。組織を構成する大部分の人々は、個人力を大きく働かせることはできません。
たとえば息抜き、娯楽、エンターテインメントと呼ばれるものを供給する産業は現代の消費者へ大きな影響力を持っています。昔は、お祭りや大道芸人や芝居小屋がそれを提供していました。現代は、まずテレビ、ビデオ、オンラインソフト、書籍、新聞雑誌。オリジナルデータが何万部、何百万部と複製されて販売されます。
毎日新しく供給されるそれらのイベントや作品は、確かに一人か数人の制作者がいます。またそれぞれ出演者やモデルの身体によって表現される作品もあります。しかしいずれにしろそれぞれの作品は一人か多くても数十人という少人数の個人力によって世の中に存在しています。





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