人気blogランキングは?  たびたび尾籠な“糞”の話で(私はスカトロジストではない)…辟易だろうけれど、「排便の苦しみ」の「本当のところ」は、手術をしたり、便秘や下痢の真っ只中にいない限り、誰にだってわかりはしない。
 心身共に健康であれば、「排便」は食ったり眠ったりの日常生活の流れの中の、ごく自然な生理現象で、ことさら意識の俎上にのってくることはほとんどないからだ。
 手術後、ペニスに差し込まれたカテーテルの小便袋をぶら下げ、尻に巻いた「おむつ」に糞を溜め込んだまま、点滴用のスタンドを押しながら一目散にトイレに向かうというのは、かなり異様で非日常的光景…。当の私に、恥ずかしさも情けなさも、悲惨さも屈辱すらも感ずる間なんてあったもんじゃない。
 時も時、我が物ではなくなりつつある排泄物を、きれいさっぱりひたすら排除したいと、おそらく本能的に願うばかりなのだ。
 「一人でトイレに行くのはリハビリなんです」と、こともなげに言うナースに、くすぶって残ってはいる我が自尊心のかけらに目をつむって、なんとか甘えて処理してもらうのは確かに楽だけれど、ちょっとばかし美人ナースだったりすると、癪だ。
 それに、みごと排便に成功し、排泄された塊(あがきながら出てきたそれは、憎らしいというより、いとおしさすら感じたりするのだが)を、とくと確かめ得た後の、小躍りしたいほどの達成感と、「糞の呪縛」を解かれた「自由」は、まさにエクスタシーに近い「生」への輝く一筋の光である。
 なんてことを、謳いあげたり、さもなくば、滑稽な「笑い話」に仕立て上げるのは、「排便の苦しみ」を越えたところで、にわかに流れ込んでくる「屈辱」感や、やがて訪れてくる「日常」に面と向きあわねばならぬことからの「逃げ」に相違ない。…まァ、クソのようなカラ元気を、なんとか絞り出して、「語り種」に昇華する以外にないというわけだろう。
 さて、くだくだ言ったって、とにかく「糞は糞」、懸命に機能し、生命を維持しようという動物の「営み」を積み重ねた末、果たして、私は未だ生きている。
 時を経て、腹の真ん中に真一文字に残る手術痕は、そんなことが、この私自身に起こったに違いない証拠ではあるけれど、「時の反芻」など、どだい無理、なぜか微かな実感すらほとんどないというのが、ほとほと私のいい加減さなのだ…。
 まァ、ヒトは忘却しながら生きていくのだし、それができるから生きていける。
 てなわけで、 身も蓋もないことを、シラーッてな具合に書けるようになったってことは、明るい希望をもって言えば、おそらく私は、世俗「煩悩」から解き放たれつつあるのかもしれない。
 いや、さもなくば、三途の河原に、ちょっとばかし足を踏み入れているのかも…。
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