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 流れゆく「ことば」に、やさしく心地よく包まれる…。
 誰彼にとっては、ほとんど取るに足りぬつまらないことでさえも、「これって夢じゃないかしら」と夢現の狭間を朦朧と行きつ戻りつしているような時でさえも、ときに定かに理解できない漠然とした形象に対してすら、私ときたら、「ことば」を繋ぎ合わせ紡ぎながら、おぼろであてどない何かを知ろうと、思い考え、思念し、想像し妄想している。
 私は考えることを途絶えさせることが出来ない。
 人々も、おそらくそうであろう? が…私は、ちょっと偏執狂的におかしいのかしら…わからない。
(C) JULIYA しかし、そうすることは、「この世に、生の痕跡などこれっぽっちも残さず、ほとんど自然に還るように消え去りゆく」ことこそが理想であり、唯一の望みである私にとって、確かに「ことば」は、私の唯一の「生の力」であり、まぎれもない「今在ることの証」であるわけなのだから…(まッ、言ってみれば、こうして書く行為自体が生の痕跡ではあるけれど)。
 それは、「ここに今在ることをしか信じられない」という、どうしようもない、そのように生まれてきた「さが」を背負ったとしか言いようがないが…。
 えェなにも、「cogito命題」なんて高尚なことを言いだしたいわけでは、もちろんない。
 「こちらから、あちらへ、すーっと移りゆく」ことが「私の死」…もしも、そんなことがあるなら、痛みも苦しみも、ましてや、心地よさも楽しさなどなども、てんでなく…「ここはどこ?」「私は、誰?}なんて思ってみたら、私は「あちら側」にいたなんてのがいい。
 つまり、私が「わたし」であることの自然、それを「神(…の存在を言っているのではない)」のポジションに置いて、おそらく私は生きているわけなのだから…私は、「私」を俯瞰しながら、「ことば」を紡ぐことを止められないのだろう。
 けれど、いかな私とて、かつて幾度といわず、「迷い」にさいなまれたことはある。…そこで、考える「ことば」の呪縛から解き放たれてみようと、私は意図して故意に、「迷い込んだラビリンス」の確かめ得ない空間のさすらい人になって、時の流れに「ことば」を手放し、ひたすら「思うことなく」「存在もなく」「無」に「空」に…。
 しかしだめだ。そのように意図すればするほど、まるで幽体離脱したような「私」は、すぐさま「ことば」 を懸命に引き寄せようとする。それはまるで「獣の本能」のように…。
 おそらく、実体も、実感すらもないはずの「場」「ポイント」が、なんとか「ことば」によってしか、私たちの中(どこにいうわけではない)に顕在化しないからだろう…。
 実に不条理なことだ。

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