明かり一つなく、光もない漆黒の闇の中で、私は、自らの呼吸と鼓動を何度も内に向けて確かめながら、皮膜一枚の外の世界から、奇妙なことに、なんだか心地よい満たされた肌合いをうっすらと感じていた。
私は、恐らく今まで居たことのない「場」にいるに違いない。
「もしかして、あちら側に…迷い込んでいるのかしら…」
宙ぶらりんの方位の定まらないCHIKOの声が、まどろみの中で聞くエコーをかけた響きのように、揺れながら、微かに、途切れ途切れに聞こえてくる。
「…どこにいるの…来てくれたのね…傷は痛まないの…」
打ち寄せるさざ波に乗ったような、ゆらゆらとした浮遊感が、私を不安に駆り立てはしたが、それでも、CHIKOを求める強い意志の中で、私は、私の中のどこかで、しっかりと考えることができた。
そうだ、「手負いの男」は私自身で、その男の女、つまり、KIMIの女というのはCHIKOのことで、だから、私がKIMIと呼んでいたのは私自身…。
そう、KIMIは、まぎれもない私自身だったのだ。
すると、明らかに、CHIKOは、この私に向けて呼びかけているのだ。
だが、CHIKOが見えない。
不安と安堵の断続的な「生」の感覚の中で、私は、生温かいヌメヌメとした感触を、なぜか心地よいと感じながら、手探りをするように「軟体の襞の壁」が途切れる場所に、きっと、そこからの出口があるはずだと、確信に近い思考回路で、迷うことなく考えていた。
それは、光を突き止めさえすれば、私は、きっとCHIKOに会えるという、まるで証拠のない盲信だったかもしれないけれど…。
錯綜する知覚は、まるで解れることのない神経繊維のように、私を闇のラビリンスの中で、いたずらに迷わせる。
そうやって行き着いた確信から、さらに、考え考えた末の、パッと晴れわたるような境地は、いかにもシンプル…そう、「求めさえすればいい」ということだった…。
私は、思わず微笑んでいたに違いない。
「KIMI、あなたを岬にある私の館に導いたのには、ワケがあるの…もちろん、傷ついていることも知っていたわ。あなたの性格からして、それを理由に、これ幸いに動かないことも、ちゃんと予測できたけれど、その傷は、あの女に最後通牒を出すときに、こっぴどい叫びを浴びせられて負わされたものだから、あえて私は、あなたの意志が欲しいのだから、温かいスープを用意するだけにして、それですませたの。そうよ、今にして思えば、あなたは、そのときはすでに、愛のベクトルを軌道修正してくれているのだから、言ってみれば、ちょっとした私のジェラシーの残り香だったかもしれない…けれどネ。それに、体力さえつければ、そんな傷なんてすぐに直ってしまうほど、深くはないはずよ。だって、傷が深ければ深いほど、私は立ち直れないほどのジェラシーの潮目に巻き込まれて、挙げ句の果て冷酷な本当にイヤな女になったはずだから…。そうよ、そんな風にして、私は、あなたが目ざすべきは、とにかく岬の館…そう、私であって、決してその女でないことを、心底知らしめねばならなかったの…」
CHIKOの声は、不思議なことに、次第に鮮明に、カンパネラ、そうフジコ・ヘミングの奏でるあの旋律のように、響き始めていた。
いまや私は、それを、ありとあらゆる感覚を束ねるような具合に、あたかも芳醇なお酒が体中に染み渡っていくような要領で聴き取っていた。
「KIMI、思い出してみてちょうだい。あなたは、私との同時代を過ごした中で、きっちりと5年間、この私を捨て置いたのよ。あなたは、私が女でなくなるのも、平気に見過ごしてしまったの。ほら覚えているでしょ。あのパリでのこと。あなたもロケでパリにやってきて、私のホテルの部屋を訪ねてきたじゃない。KIMIは、きっとパリでなら、私に優しくしてくれるはずだと、どんなにかうれしくって、待ち焦がれたか…。そうよ、あなたは、あの天蓋のあるステキなベッドで、私に背を向けたまま、私に触れもしないで、冬眠を待ち焦がれていた熊のように、ぐっすりと寝入ってしまったのよ。仕事の合間を縫ってくれたにしても、それってひどすぎるわ。私は、その時、いや、そんなことがあった後ですら、しばらくの間は、あなたを毫も疑ったことがなかったのよ…KIMIは、きっと、余程の疲れが溜まっている違いないと、すんなりと私自身を納得させたの。おかげでほとんど一睡も出来なかった私は、クチュールで、昨夜はさぞステキだったのネなんて、現実と裏腹に冷やかされてしまった…皮肉だけれど、うんそうだったのネきっとなんて、私は悲しい肯定をしたものよ…」
CHIKOの モノローグのような声は、私の「生の縁」を確認させるように、私の中で響き続けている。
「求めさえすれば」、この漆黒の闇は、まるで皮膜をつるりとひっくり返すように、光を浴びる場に反転するに違いないのだ…。
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