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 昨日は公共事業チェック議員の会の役員会があり、総会を11月26日に開催することを決めた。午後は、『ミカン王、道路官僚との闘い』(仮題)を週刊朝日に入稿。今日、北海道に出発するために一日早く原稿を書いた。週刊誌の仕事は原稿を入れるのがぎりぎりになることが多いのだが、前回の『戸倉ダム』ルポが連日の疲労のためかどうしても期限ぎりぎりまで書けなくて苦労したこともあり、何とか夜中に完成した。

 北海道と言えば、ずいぶん長いこと行っていない。たしか前回は北海道知事選挙に立候補した荒井さとしさん(現衆議院議員・総理補佐官)の応援のために札幌の街頭でリレー演説をしたことを思い出す。タウンミィーティング問題の野党プロジェクトの頃だから、06年の秋か翌年の春だった。なぜか、沖縄の喜納昌吉さん(民主党参議院議員)と、すすきので飲みながら語ったことを覚えている。

 19歳の頃、私は北海道で約半年間を過ごした。自動車運転免許は札幌北自動車学校で取得したし、すすきのの居酒屋で働きながら、3畳の屋根裏部屋に住んでいた。北海道の人たちは温かくて、ずいぶん可愛がってもらった。農家に住み込ませてもらって、田植えの手伝いをしたり、いくつかのアルバイトをしながら楽しくやっていた。
その後、東京に戻って翌年には沖縄に向かう。放浪とまではいかないが、漂泊の旅をしていたのが20歳前後の頃だった。

 それから10年後、1987年にも3~4回北海道を訪れている。それは、沖縄で「金環日食」があるのに合わせて、アイヌ民族50人を招待するというプロジェクトの責任者としての仕事だった。当時の航空運賃でも、北海道・沖縄間は一人10万円かかった。運賃だけで500万円、宿泊費・滞在費も合わせれば800万円は超える。

 文化交流の意義を説いて、航空会社や旅行代理店、ホテルなどをまわり協力を得て、なんとかその半額の費用で条件を整えた。しかし、400万円は借金として残って、その後に仕事をしまくった。この企画の発案者は喜納昌吉さんだった。自分も大きく借金をつくったから、あなたも当然そのぐらいは背負えということだったが、イベント自体が大成功で感動的だったので何とも思わなかった。 

 それから、30余年。当時生まれた世代が、衆議院選挙の候補となるぐらいの年月が流れた。わずかなひとときに過ぎないが、北海道の旅で、たどってきた道のりを思い起こしてみたい。


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