2017年12月11日

東栄町中在家の花祭り(12/10)

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何も音のしない・・・
懐中電灯がないと歩けない真っ暗闇の道を歩いていくと
遠くの方からかすかに太鼓の音が・・・・・



花祭りに行くと・・・
何度も行けば行くほど、
このお祭りにはあらゆる場面に「生まれ清まる」ためのスイッチが
ちりばめられていると思うようになります。

夜20:00。
愛知県山間部に向かうほとんど車の走らない暗い道路。
車を止めてから懐中電灯がないと
歩けない明かり一つない集落へと続く道。
この暗い道はいつまで続くのだろうと心細く思う頃に
遠くから聞こえる太鼓の音。
笛の音と「テーホヘーテホヘー!」と掛け声が聞こえてくれば
祭り会場の「花宿」は近い。

花祭りが一年で一番日の短い
この時期に行われる理由。
花祭りが明るいうちから深夜を越え
再び明るくなるまで行う理由。

「明るい→暗い→明るい」は
「生きる→死ぬ→生きる」のモチーフ。
そのことを花祭りでは
「生まれ清まる」儀式と意識としている。
このような儀式は古い信仰心にはよく見られ擬死再生儀礼。


擬死再生儀礼

擬死再生とは読んで字のごとく、一度死んだことにして再び生まれること。その意義は、死ぬということによってすべての罪や災難を滅ぼし、汚れのない生命として生まれ変わるということにあります。つまり山岳信仰では、山中には地獄や浄土の他界があるとされ、登拝のために山へ入るということは、死んで地獄の責苦を果たし、最終的に浄土へと入ることを意味すると考えられていたのです。
擬死再生儀礼とは、こうした山岳登拝に見られる擬死再生の意義を、アトラクションとして一般庶民にも体験させるために行われたものと考えられます。死装束で橋を渡る「浄土入り」の儀式は白山の行事にもあったとされており、立山の布橋灌頂会はこの白山行事を原形としていると考えられています。

(参考文献 五来重「日本人の地獄と極楽」人文書院)



鬼たちは何度も何度も花宿の地面を踏みしめて
新しい命が誕生しやすいように
地面を割ってくれるのです。

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疑死再生は山岳信仰の考えも同じ。
人の世界→神様の世界(山の上)→人の世界とたどることで
生まれ清まると考えたのです。

現代の山登りをしながら疑死再生などと意識して
山に登る方は居ないと思いますが
無意識化では生まれ清まっているように僕は感じます。
花祭りへの興味が尽きないのは「登山」が内包する
共通した部分からかな。

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普段一切信心深いと自分のことを思わないけれど
山に登っている時と花祭りを見ている時には
神様が近くにいるような気がする。
それが案外ここちよいのです。


今回見に行った中在家集落は当社もなじみの場所。
三瀬明神山の三点確保講習会で入る登山口手前の集落です。
今は9つの民家しかなく
祭りが維持できなくなりかけたのですが
東栄町の他の地区の応援で伝承を続けています。

そんなギリギリの維持なのでここだけは他の花祭りと違い
深夜をまたがず朝から夜までのスケジュール。

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唯一日帰り可能な花祭りです。
泊ってまでと思われる方にも観覧が可能ですから
可能な方は来年でもぜひ見に出かけてあげてください。
なにか新しい扉が開かれると思います。

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kido2341 at 13:02│Comments(0) 山遊び | 山岳信仰

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