グールドのバッハ「平均律クラヴィーア曲集第1巻Vol.2」(1963録音)を聴いて思ふ

いわば30分余りの神聖なる余暇。
分割された旧約聖書「平均律クラヴィーア曲集」。
しかし、このオリジナルの形こそが真実なのである。グレン・グールドの超絶技巧によるピアノ芸術を繰り返し聴くに及び、バッハの残した作品の素晴らしさと、グールドの演奏の他のものとは比較しようのない美しさにあらためて気づく。
50数年前、世界はもっとのんびりして、心はもっと豊かだったのだろう。
時代の進歩とともに、一切のスピードは速まり、世界は身近になった。その分、僕たちはたくさんのことに執着し、一方で、たくさんのことに対するこだわりを失った。

技術はアナログからデジタルになったのだが、この50余年には実は何もなかったのかも・・・。

それにしてもその日から六十年が経った。何という須臾の間であろう。或る感覚が胸中に湧き起こって、自分が老爺であることも忘れて、母の温かい胸に顔を埋めて訴えたいような気持が切にする。
六十年を貫いてきた何かが、雪の日のホット・ケーキの味という形で、本多に思い知らせるものは、人生が認識からは何ものをも得させず、遠いつかのまの感覚の喜びによって、あたかも夜の広野の一点の焚火の火明りが、万斛の闇を打ち砕くように、少なくとも火のあるあいだ、生きることの闇を崩壊させるということなのだ。
何という須臾だろう。十六歳の本多と、七十六歳の本多との間には、何事も起らなかったとしか感じられない。それはほんの一またぎで、石蹴り遊びをしている子供が小さな溝を跳び越すほどのつかのまだった。
三島由紀夫著「天人五衰―豊饒の海・第四巻」(新潮文庫)P60-61

人間の感知する時間などというのはたががしれているということ。
確かに時間は待ってはくれないが、慌てることなく、しかし、歩みを止めないことだろう。
グレン・グールドのバッハは「つかのま」だ。
そしてまた、虚飾を排して赤裸々に語る「真実」だ。
そのわずかな時間の中に凝縮された音楽を集中して聴くことの幸福。

J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻Vol.2
・前奏曲とフーガ第9番ホ長調BWV854(1963.4.9録音)
・前奏曲とフーガ第10番ホ短調BWV855(1963.6.18-20&9.18, 25録音)
・前奏曲とフーガ第11番ヘ長調BWV856(1963.4.9録音)
・前奏曲とフーガ第12番ヘ短調BWV857(1963.6.18録音)
・前奏曲とフーガ第13番嬰へ長調BWV858(1963.6.18録音)
・前奏曲とフーガ第14番嬰へ短調BWV859(1963.8.29録音)
・前奏曲とフーガ第15番ト長調BWV860(1963.8.29&30録音)
・前奏曲とフーガ第16番ト短調BWV861(1963.6.18-20, 8.30&9.18, 25録音)
グレン・グールド(ピアノ)

冒頭、安穏とした響きのホ長調前奏曲から釘付け。また、ホ短調前奏曲の、グールドらしい機械仕掛けの音楽に癒しを覚え、快速のフーガに喜びを知る。そして、ヘ短調の前奏曲に横溢する、暗い哀しみの表情に胸を締めつけられ、続くフーガの沈潜してゆく音楽の様に無常を思う。

本多はいずれ自分が死ぬときには、これらのビルは全部なくなるのだ、という想いに、一種の復讐の喜びを味わった。その瞬間の感覚を思い出した。この世界を根こそぎ破壊して、無に帰せしめることは造作もなかった。自分が死ねば確実にそうなるのだ。世間から湧据えられた老人でも、死という無上の破壊力をなお持ち合せていることが、少し得意だったのである。本多はいささかも五衰を怖れていなかった。
~同上書P77

すべては自分との関係の中にある。
そしてその解釈はあくまで自らの単なる思考の産物。
死を選択せずとも関係を客観視する術はあったように僕は思う。
グレン・グールドの弾くバッハのように。

 

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