(小野正嗣 文藝春秋)

船室に入らず甲板に出ていた人たちが希敏に向かって、バイバーイと手を振っていた。さなえは素早く希敏の背後に腰をかがめると後ろから希敏の手首を握った。振らせようとしたけれど無理だった。小さな体の両側にぴたりと添えられた両腕は、かたくなにしまい込まれた鳥の翼のようだった。鳥は自由に飛翔するのがいちばんなのだ。自由に飛んでいいのに、それを邪魔するものは何もないのに、そして翼を広げて飛んでくれと懇願されてもいるのに、どうして翼を折りたたんだままでいられるのか。

<おまえが翼を折ったからだ>

今年35歳になるさなえは、東京での同棲生活に見切りをつけて、故郷・大分の海辺の小さな集落にある実家に戻ってきていた。

もうすぐ4歳になる息子・希敏(ケビン)は、長い睫毛のくりくりした目と整った鼻が、カナダ人(この土地の言葉でいえばガイコツ人)の父親にそっくりの、天使のような容貌だったが、

突然<引きちぎられたミミズ>のようになって、のたうちまわることでしか、自分を表現することのできない障害を抱えていた。

そんなさなえが、<おまえが翼を折ったからだ>という非難を受けたような気がして、そうじゃないと否定する代わりに、息子の手首をさらにきつく握りしめたとき、

突然九年前に役場の主催で町の陽気なおばちゃんたちと出かけたカナダ旅行の記憶が甦った。

<こんなふうに手首をつかまれたことがあった>

モントリオールの満員の地下鉄で、迷子にならぬように「人間の鎖じゃ」とお互いに手をつないだ、にもかかわらずはぐれてしまい、奇蹟的に見つかった二人に仲間たちが投げかけた声。

「手を放したらいけんかったのに!」

<舞い戻ってきた鳥の群れが地面の虫をくちばしの先で奪い合うように笑う>九州の海辺の集落から来た女たちは、

はぐれた仲間を見つけた安堵から、怒りよりも喜びを、そして何よりも罪悪感を含めて、異国の地でも周囲の目をはばかることなく、故郷と同じ鳥の歌声を奏でていた。

本年度芥川賞受賞作品。

あの時、たまたま入った町の教会で、皆ではぐれた二人の無事を祈ってひざまずいた時、リーダー格のみっちゃん姉だけが随分長く、何を祈っていたのだったか?

「危ねえっ!」
背後から船長が叫ぶのが聞こえた。希敏が宙に一歩踏み出したちょうどその瞬間、さなえは希敏の左腕をつかんだ。
あっ!
その声は発せられるや、一羽の小鳥となって空高く舞い上がった。どこに消えたのか、もう見えなかった。希敏の声だったのだろうか。それともさなえの声だったのだろうか。
母にぐいと引っぱられたはずみに、希敏は握っていたガラスの小瓶を放した。さなえは手を伸ばしたが遅かった。


「手をちゃんとつないでおかんから! 手を放したらいけんが!」

重い病で入院したみっちゃん姉の息子さんの健康回復を祈願するため貝殻を取りに行った船旅の途上、再びあの鳥の歌声を耳にしたさなえは、

うんざりするほどに心地よい、土地の力の温もりに包み込まれていることに気がつき始めていた。

さなえは後ろから腕に抱いた希敏の両手に自分の両手を重ねた。桟橋を向こうから近づいてくる父と母が、さなえと希敏を呼ぶ声が聞こえた。・・・
息子の手はひんやりと冷たかった。だからさなえは手に力を込めた。目を閉じて頭を垂れた。悲しみはさなえの耳元に口を寄せ、憑かれたように何かをささやいていた。聞きたくなかった。聞いてはならない。顔をさらに息子の頭に、柔らかい髪に押しつけた。熱を感じた。かすかに潮の味がした。息子のにおいが鼻いっぱいに広がった。


(2015年4月)

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