(吉村武彦 岩波新書)

645年(皇極4)6月12日の「乙巳の変」(クーデター)において、蘇我馬子の孫にあたる蘇我入鹿が暗殺され、翌日にはその父、つまり馬子の長子である蝦夷も自尽した。ここに馬子―蝦夷―入鹿と続いた蘇我氏本宗(一族の嫡流の家系)は、滅亡した。

いわゆる「大化改新」である。

中大兄皇子(後の天智天皇)を中心に実行されたこの国内改革で生まれた新しい統治体制の中で、「排除すべき存在」とされてしまったことが、

8世紀に完成した『日本書紀』以来、現代までに続く「蘇我氏逆賊説」の由来と言うべきものなのだろう。

しかし、「改新で蘇我氏の一族すべてが滅亡した」わけではなく、入鹿の従兄弟にあたる蘇我倉山田石川麻呂は中大兄側に与し、

その後の政治情勢の激動の中で、結局は「蘇我」の名前を忌避して、氏名を改姓した「石川」氏として、政権の群臣として活躍していくことになるのだし、

そもそも、その行動を否定的に記述している部分が多い『日本書紀』においても、

欽明朝における蘇我稲目(馬子の父)の仏教支援や、敏達・推古朝における馬子の仏像製作・僧尼恭敬など、仏教興隆に対する蘇我本宗家の貢献は、しっかり評価されているのである。

「氏」が誕生したのは6世紀初めであるが、最初に成立したのはヤマト王権における「職掌」を氏の名とする、「名負いの氏」と呼ばれる伴造氏族であり、「連」のカバネを与えられた。

「伴」(労働力をもって王権に仕え奉る人)の集団を管理する「大伴氏」と、「物」(軍事・警察や刑罰、および神事)を貢納する「物部氏」が、その代表格ということになる。

一方、特定の地域に政治的基盤をもっていて、その地名を名のった氏族が、「臣」のカバネを与えられた蘇我・巨勢・葛城・平群などの氏族であった。

崇峻天皇暗殺という政治的事件の後、蘇我氏主導の下で選出されたのは、先の敏達天皇の皇后で、馬子の姪にあたる額田部皇女であった。

ヤマト王権初めての女帝、推古天皇の即位には、天皇の外祖父になろうとした蘇我稲目の深謀遠慮があり、これを契機に群臣のトップにのし上がった馬子の暗躍があったのだが、

そんな蘇我氏が大化改新以前は大きな政治的影響力を及ぼして活躍しながら、壬申の乱以降は見せ場を失い、今度は鎌足―不比等と続く藤原氏が活躍することになるのは、

地名を名のる氏として、制度的にではなく実質的に、外戚の立場を利用して政治力を行使してきた蘇我氏が、その専横を皇族・貴族らの反乱によって咎められたのに対し、

神祇祭祀を掌る名負いの氏であった中臣氏が、功績によって賜姓された藤原氏を名のることで、純粋な官僚氏族として振る舞うことが可能になったからではないかという。

仏教を含む文化に対し進取的な態度をとった開明的な氏族であろうとも、古い守旧的な殻を打ち破ることはできなかった。

蘇我氏には、律令制支配という貴族の再生産を確実に実現する仕組みを、構想することができなかったということなのである。

というわけでこれは、古代ヤマト王権の頃から藤原氏が台頭する奈良時代までの歴史を、蘇我氏という氏族の興亡という切り口から追ってみることで、

日本の国のかたちを整えていく上で、看過することのできない、<氏の名がものをいった時代>の様相を活写して見せた意欲作なのだった。

蘇我氏は、壬申の乱以降、蘇我氏の名で活躍することはなかった。しかし、蘇我氏の足取りを振り返ったとき、日本の古代社会が、律令制国家の成立によって「東夷の小帝国」を完成させる直前まで、蝦夷や入鹿の横暴さにもかかわらず、日本列島の文明化に果たした役割は大きいものがあった。とりわけ渡来系移住民との強いつながりと進取の気勢、それが仏教受容への姿勢に強くあらわれたと思われる。

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