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畑の中に残る、白梅学徒が派遣されたヌヌマチガマ(新城分院)
八重瀬町に行ってきたわけですが....
沖縄県の観光地として有名な玉泉洞の近く、
畑の間にひっそりと残るヌヌマチガマに行ってきました。
ヌヌマチガマは沖縄戦当時、
野戦病院として使用されたガマ(自然洞窟)の一つで、
まだ若い白梅学徒の女子生徒たちが、
連日過酷な看護作業にあたった場所として知られています。
ヌヌマチガマ(新城分院)と白梅学徒
~ 次世代に残すもの、それは平和 ~
このガマは沖縄戦当時、第32軍の第24師団(通称山部隊)第一野戦病院の分院の一つであった。地名の新城(あらぐすく)から「新城分院」とよばれていたが、現在は地元の呼称で「ヌヌマチガマ」と称している。
ガマは全長500メートルもあり、ヌヌマチガマが西側出入口で、東側出入口はガラビガマである。「ガマ」は沖縄の言葉で自然洞窟のことである。
沖縄県立第二高等女学院の4年生56人が、第32軍司令部の要請を受けて、1945年(昭和20年)3月6日から第24師団3486部隊の内務班生活で看護学を受講中、同月23日から沖縄本島南部に艦砲射撃が始まり、看護学習は18日間で打ち切られた。翌24日から第24師団第一野戦病院に緊急配置され、6月4日までの73日間、八重瀬岳の本部壕、手術場壕、新城分院、東風平(こちんだ)分院でそれぞれ補助看護婦として傷病兵の看護にあたった。
4月下旬に5人の学徒がこのガマに派遣され、軍医、衛生兵、看護婦、地元の女子青年、朝鮮出身女性の方々と共に、1000人を超す傷病兵がひしめくガマの中で昼夜を徹して過酷な任務に就いた。学徒たちの役目は主に、負傷兵の緊急処置や手術、包帯交換時の明かり(ろうそく)持ち、傷病兵の排出物の始末、切断された手足の処理などであった。日を追って負傷兵の搬入が増え続け、ガラビガマ側にも病室が広がっていった。
4月1日に沖縄本島中部の西海岸に上陸した米軍は、5月末頃には首里まで侵攻。6月3日にはこの分院は閉鎖された。分院撤退時に、身動きできない重傷兵約500人に毒薬の青酸カリが投与され、飲み込めない兵や薬が効かず苦しんでいる兵は、注射や銃、剣でとどめをさされた。修羅場に立ちあわされた学徒たちは生涯消えない深いトラウマを負った。
6月4日には第24師団第一野戦病院は解散となった。最後まで勤務した46人の学徒たちは、鉄の暴風が吹き荒れた地上戦に巻き込まれて22人が戦死した。わずか10代半ばの年齢でかけがえのない人生を絶たれた彼女たちの無念と悲運を、このガマで起こった味方による重傷兵毒殺の惨事と併せて、ここに沖縄戦の真実として後世に伝え遺す。
以上は白梅学徒たちの証言と体験記によってまとめた記録である。二高女の学徒隊は、高章の白梅のマークから、戦後は「白梅学徒隊」と呼ばれている。
2012年(平成24年)6月23日
沖縄県立第二高等女学院 白梅同窓会
今は付近に駐車場も整備されていますが、
周りは畑ばかりで主だった目印もなく、
場所はかなり分かりにくいです。
通りから30メートルほど中に入った場所に、
突然大きな岩の割れ目が姿を現します。
地元の方でなければわからないような、
こちらのガマがヌヌマチガマです。
現在のヌヌマチガマは安全面や保護の都合から、
役所の許可がなければ中に入ることはできません。
入り口はそう大きくないのですが、
長さ約500メートルもあるかなり大きなガマとのことです。
沖縄戦当時、こちらのヌヌマチガマには、
毎日多くの負傷兵が運び込まれたといいます。
当時の野戦病院は医師も薬も不足しており、
実際は治療らしい治療など施せなかったといわれます。
日を追うごとに負傷兵の数は増える一方なのに、
治療らしい治療は何もしてあげられず、
暗いガマのあちこちからうめき声や怒号が飛び交い、
患部が化膿して肉が腐ったような匂いも充満、
死体もそこら中に転がっているような中で、
昼夜を問わず負傷兵の看護をする状況なんて、
正直想像すらできません。
本当に修羅場だったと思うヌヌチラガマ、
あまりの怖さで中に入る勇気がありませんでした。
ヌヌマチガマの場所はだいたいこの辺り
「沖縄の風景」いかがでしたか? すべての出愛(出会い)に感謝です。
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沖縄県の観光地として有名な玉泉洞の近く、
畑の間にひっそりと残るヌヌマチガマに行ってきました。
ヌヌマチガマは沖縄戦当時、
野戦病院として使用されたガマ(自然洞窟)の一つで、
まだ若い白梅学徒の女子生徒たちが、
連日過酷な看護作業にあたった場所として知られています。
ヌヌマチガマ(新城分院)と白梅学徒
~ 次世代に残すもの、それは平和 ~
このガマは沖縄戦当時、第32軍の第24師団(通称山部隊)第一野戦病院の分院の一つであった。地名の新城(あらぐすく)から「新城分院」とよばれていたが、現在は地元の呼称で「ヌヌマチガマ」と称している。
ガマは全長500メートルもあり、ヌヌマチガマが西側出入口で、東側出入口はガラビガマである。「ガマ」は沖縄の言葉で自然洞窟のことである。
沖縄県立第二高等女学院の4年生56人が、第32軍司令部の要請を受けて、1945年(昭和20年)3月6日から第24師団3486部隊の内務班生活で看護学を受講中、同月23日から沖縄本島南部に艦砲射撃が始まり、看護学習は18日間で打ち切られた。翌24日から第24師団第一野戦病院に緊急配置され、6月4日までの73日間、八重瀬岳の本部壕、手術場壕、新城分院、東風平(こちんだ)分院でそれぞれ補助看護婦として傷病兵の看護にあたった。
4月下旬に5人の学徒がこのガマに派遣され、軍医、衛生兵、看護婦、地元の女子青年、朝鮮出身女性の方々と共に、1000人を超す傷病兵がひしめくガマの中で昼夜を徹して過酷な任務に就いた。学徒たちの役目は主に、負傷兵の緊急処置や手術、包帯交換時の明かり(ろうそく)持ち、傷病兵の排出物の始末、切断された手足の処理などであった。日を追って負傷兵の搬入が増え続け、ガラビガマ側にも病室が広がっていった。
4月1日に沖縄本島中部の西海岸に上陸した米軍は、5月末頃には首里まで侵攻。6月3日にはこの分院は閉鎖された。分院撤退時に、身動きできない重傷兵約500人に毒薬の青酸カリが投与され、飲み込めない兵や薬が効かず苦しんでいる兵は、注射や銃、剣でとどめをさされた。修羅場に立ちあわされた学徒たちは生涯消えない深いトラウマを負った。
6月4日には第24師団第一野戦病院は解散となった。最後まで勤務した46人の学徒たちは、鉄の暴風が吹き荒れた地上戦に巻き込まれて22人が戦死した。わずか10代半ばの年齢でかけがえのない人生を絶たれた彼女たちの無念と悲運を、このガマで起こった味方による重傷兵毒殺の惨事と併せて、ここに沖縄戦の真実として後世に伝え遺す。
以上は白梅学徒たちの証言と体験記によってまとめた記録である。二高女の学徒隊は、高章の白梅のマークから、戦後は「白梅学徒隊」と呼ばれている。
2012年(平成24年)6月23日
沖縄県立第二高等女学院 白梅同窓会
今は付近に駐車場も整備されていますが、
周りは畑ばかりで主だった目印もなく、
場所はかなり分かりにくいです。
通りから30メートルほど中に入った場所に、
突然大きな岩の割れ目が姿を現します。
地元の方でなければわからないような、
こちらのガマがヌヌマチガマです。
現在のヌヌマチガマは安全面や保護の都合から、
役所の許可がなければ中に入ることはできません。
入り口はそう大きくないのですが、
長さ約500メートルもあるかなり大きなガマとのことです。
沖縄戦当時、こちらのヌヌマチガマには、
毎日多くの負傷兵が運び込まれたといいます。
当時の野戦病院は医師も薬も不足しており、
実際は治療らしい治療など施せなかったといわれます。
日を追うごとに負傷兵の数は増える一方なのに、
治療らしい治療は何もしてあげられず、
暗いガマのあちこちからうめき声や怒号が飛び交い、
患部が化膿して肉が腐ったような匂いも充満、
死体もそこら中に転がっているような中で、
昼夜を問わず負傷兵の看護をする状況なんて、
正直想像すらできません。
本当に修羅場だったと思うヌヌチラガマ、
あまりの怖さで中に入る勇気がありませんでした。
ヌヌマチガマの場所はだいたいこの辺り
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