またMETライブ を見てきたですが、

今回の演目はロッシーニの歌劇「湖上の美人」というものです。


原作はウォルター・スコットの叙事詩「Lady of the lake」で、

元来、アーサー王伝説に関わるタイトルだそうですが、

そうした部分はおよそ感じることのないお話になってました。
舞台はスコットランドなんですけどね。


スコットランド はネッシー(最近聞きませんね)で有名なロッホ・ネスなんかもそうですが、
いかにも氷河が削り取ったと思しき湖水の多い地域ですけれど、

そうした湖のほとりに佇むひとりの美しい女性。

これがヒロインのエレナ(ジョイス・ディドナート)でありまして、
たまたま狩りに来て仲間とはぐれた騎士ウベルトが一目惚れしてしまうのですね。


エレナには騎士マルコムという思い人がいるも、長らく逢えずじまいでいる中、
俄然、ウベルトが猛アタックを掛けてくるという状況に戸惑いながらもちとさざなみ立つ状況かと。


一方で、エレンの父はまた別のロドリーゴという騎士を許婚と決めており、
3人の男性の間に立って、エレンは右往左往…と言ってしまうと、
さもオペラ・ブッファ(コメディー)では?と思うところながら、
ロッシーニはコメディーとシリアス・ドラマを交互に書いたうちで「湖上の美人」は後者に当たるとの解説が。


ネタばれになる、といっても多くのあらすじに書かれていることですから気にするまでもないことですが、
先の騎士ウベルトとはお忍びの姿であって、実はこの人こそがスコットランド王であったのでして、
王宮を訪ねたエレンがウベルトを前にして「王様はどこ?」なんつう辺りも含めて、
これはいっそのことドタバタ・コメディーに仕立ててしまった方がいいんでないの?と思ったり。


で「コメディーとした方が…」と言ったもう一つの背景は、その歌唱の装飾性の故なのでありますよ。
技巧を駆使した歌いっぷり、これこそ見所、聴き所と思えるベルカント・オペラは、
本領発揮のアリアともなれば、ストーリーそっちのけの感無きにしもあらず。

話の展開の中にきちっとは収まりがたい、もはや異形の感情表現といえそうですし。


ですから、19世紀中頃からでしょうか、オペラのストーリー性、ドラマ性が重視されてくると、
自ずと歌唱ばかりが際立つような作品は生まれにくくなり、

ベルカントを大事にして最後の大輪を咲かせたロッシーニは

「ベルカントは失われた」てなことも言うようになったそうな。


流行り廃りとも言えましょうけれど、潮目はベルカントから他へ移ったためか、
この「湖上の美人」にしてもメトロポリタン歌劇場では初演ということになるんだそうですよ。

作曲年代が1818年ですから、およそ100年、アメリカでは上演されることがなかったという。


もっともこれはアメリカだからという特別なことではなくして、
ヨーロッパにおいても1980年に上演されたのが、20世紀に入って初めてのこと。
しかも、それがペーザロ(ロッシーニの生まれ故郷)でのロッシーニ音楽祭だというのですから、
実に実に長い間、顧みられることがなかった作品というわけですね。


ですが、世も移り変わり、

これはこれで歌い手の名人芸を楽しむものとシンプルに捉えていたのか、
ソプラノ(ジョイス・ディドナートはメゾですが)のコロラトゥーラ、
そしてテノールの輝かしく力強いハイノートの連発といったあたりにMETの聴衆は大喝采、
満場のスタンディング・オベーションといった体でありましたですよ。


個人的にはどうしてもストーリー展開の方に目が行ってしまい、
同じロッシーニでも「チェネレントラ 」みたいな楽しさのある方が
ベルカントに合っている気がしてしまいましたですが。


それにしても、マルコムを歌ったダニエラ・バルチェッローナはメゾ・ソプラノで

要するにズボン役ですけれど、幕間のインタビューの中で、ロッシーニのオペラのことを
「のどにいい」だったか、「声にいい」だったか(「いい」の部分は「healthy」と)言ってました。


超絶技巧的フレーズの連続でもあろうかというところへもってきて、この感想とは
プロの声楽家とはすごいもんですなぁ。