外を歩いて汗ばんだものの、1枚脱いだら思わず冷えて…そんなことでもありましょうか、
「こりゃあ、風邪ひいたか」と気だるい身体を横たえて、うつらうつらしている週末の午後。
しかしながら、昨日はゆっくりまどろんでもおられずという状況でありましたなぁ。
なんとなれば、統一地方選の関係で住まっておるエリアでは市長選、市議選の投票日前日、
「最後の、最後の、最後の!」なんつうお願いを通り越した拡声器の響きが次から次から
住いの近くを通り過ぎていくわけで。
毎度のことながら、あの宣伝カーで廻って歩くということにどれほどの価値と意味があるのか
測りかねているものからすれば「逆効果なんでないの…」的な思いがまた立ち上ってもこようかと。
そして、迎えた本日が投票日と相成ったのでありますが、正直なところ、市長にも市議にも、
投票したい、つまりは「頑張ってやってもらいたいもんだね」と思う候補者がいないのですね。
だからと言って「投票しない」という選択は、
よく言われるように「それでは何も変わらんではないか」と声高に一喝されてしまいそうですな。
ここら辺、選挙権はあくまで「権利」であるものながら、
あたかも「義務」であるかのようになってしまっているという変てこな構図があろうかと。
もともと、政治は位が高い人とか、高額納税者だとか、はたまた男だけとか、
限られた範囲の人だけが選挙にあたって投票できるものであったのを
ある程度の広がりで(今の日本で言えば20歳以上であれば、基本的に誰でも)権利が
与えられることになってきたわけですね、歴史的に。
そのこと自体はいいことだったのだと思うんですが、そうしたことの延長線上ではありながら、
ことほどかほどに行使されない「権利」になってしまっているとすると、
「投票に行こう」的キャンペーンにも税金を使って云々する以前に、
選挙のあり方といいますか、そもそものどこかに制度疲労があるんではないかと
思ったりもするところです。
と、ここで引き合いに出すのは適当ではないやもしれませんですが、
チリのピノチェト独裁を葬り去った住民投票を思い浮かべてみると、
まったくもってもし仮に、現状に対して「NO」という投票が可能であったとするならば、
投票率はけっこう高いものになったりするのではなかろうかと。
金太郎飴を切って並べたような候補者から誰か一人を選んで投票するよりも
よほど思っていることをストレートに伝えられる手段なんじゃないかと…、
たぶん熱までは出てないと思うものの、いささかぼんやり気味の頭で考えておりましたですよ。