図書館から借りてきていた本を一冊読み終えたのですけれど、

これ、タイトル付けに失敗してないかな…と思ったのが正直なところでして。


で、そのタイトルはといえば、「歌曲と絵画で学ぶドイツ文化史 中世・ルネサンスから現代まで」というもの。

表紙を飾るのは、シューベルティアーデ(シューベルト を囲んだ、仲間たちの集り)を描いた絵ですので、

いかにも「ドイツ文化を音楽と絵画の側面から語っちゃうよ」的雰囲気が漂ってくるではありませんか。


歌曲(リート)と絵画で学ぶドイツ文化史:中世・ルネサンスから現代まで/石多 正男


ですが、内容は決してドイツ文化にとどまるものではないものですから、

先に言った「タイトル付けに失敗」云々は、とんでもない!とか、つまらない…ということではなくして、

もっと広くヨーロッパ文化と言っても良かったのでは…ということなのでありますよ。


「はじめに」に「同じ時代に生まれた芸術には、同じ時代精神が反映している」とあるのは、

あまり音楽史と美術史を横並びにして見渡すことがないにもせよ、「そうだろうなあ」とは思うところ。


そして、こうした考え方でもって語り起こす中世・ルネサンスでは、

美術ではジョットやレオナルド・ダ・ヴィンチ 、音楽ではパレストリーナという芸術家に言及されるわけで、

確かにハンス・ザックス(マイスタージンガーですな)やデューラーにも触れていますけれど、

やっぱりドイツより広い文化史といえそうなところですし。


考えてみれば、トーマス・マン「ブッデンブローク家の人びと」 の解説に

ドイツ文学は遅咲きであった(ありていにいえば、成熟が遅れていた)てなことが示されてましたけれど、

結構、文化的な側面一般に言えることなのかもしれませんね。要するに文化的後進国といいますか。


地中海岸からヨーロッパ文化なるものが始まったとして、

アルプスの向こうの蛮族(?)にまでそれが及ぶのは時間が掛かったと言っていいのかどうか。


美術でイタリアやフランドルが輝いていた時代、ドイツではデューラー以外にいないとは言いませんが、

今ひとつ見劣りするところでしょうし、音楽の方も後には音楽大国然としているものの、

例えばモーツァルト の時代にあっても、宮廷で幅を利かせていたのはイタリアの音楽家であったわけですし。

ドイツに限った芸術史を語ろうとすることは、なかなかに難しいことなのかもです。


…と、また前置きが長引いてしまったので、本の内容に触れるのが少しになってしまいますけれど、

そういう内容だという前提に立って、かつ古い時代はざっくり端折らしてもらって、やおらこんな引用から。

音楽は20世紀に入ると、特に1910年代にはっきりと無調に向かう。ここに挙げた絵画も具象画の最後の雰囲気を示しているように思う。もう少しで、人物は足を大地から離し、宙に浮くようだ。
実は、実際に人間が宙に浮き、最初に空を飛んだのは1903年のライト兄弟である。

古い時代は端折るったって、いきなり20世紀とは飛びすぎだろう…と思わなくもありませんが、

その辺はご容赦いただくとして、引用中「ここに挙げた絵画」というのは、

シャガール の「誕生日」(1915年)、セガンティーニ「淫蕩の罰(涅槃のプリマ)」(1891年)、
ゴーギャン「説教の後の幻影」(1888年)、 アンリ・ルソー「風景の中の自画像」(1890年)、

そしてムンク 「岸辺の若い女性」(1896年)などでありました。


無調の音楽が「宙に浮く感じ」、すなわちふわふわした(おちつかない)感じを聴き手に与えることは

一度聴いてごらんになれば、「なるほど」と思われるところではなかろうかと。


こうした「ふわふわ感」が時代背景としてあり、引用に言われているように偶然にも同じ時期、

科学の分野において飛行機の発明がなされたというところもまでのつながりには

何とも面白い共通性があるものだと思ったのでありますよ。


やはり時代を横並びにして見ないと気付かないことがあるものだと思ったわけですが、

ここでも少しさらに後の時代のことを引用で。

ポロックのドリッピングなどによるアクション・ペインティングは、描くという行為を重視し、絵画における被写体はもちろん、線描、色彩、画面構成に人間の意思を可能な限り持ち込まない手法だとも言える。偶然を重視している。
実は、音楽でもポロックと同じ年に生まれたケージが20世紀中頃からそれまでの音楽の基本を覆すような実験をするようになる。…ケージは楽音だけでなく、騒音や人の息の音などあらゆる音が音楽になりうると考えた。そして、この世界には偶然に発せられる音が無数にあり、それにも意識を向けようとしたのである。

ジャクソン・ポロックの作品が偶然性を強く意識した作品であることはよく知られている。

(もっとも、どこに絵具を滴らせるかは作者の意図以外の何ものでもありませんけれど)

一方で、ジョン・ケージが「偶然性の音楽」、例えば「4分33秒」とかを生み出したこともよく知られている。

ところが、この二人が同年生まれであって、どちらも全く同じ時代の空気の中にいたのだとは

あんまり意識したことがなかったものでして。


というふうに、ここに引っ張り出したのはかなり現代に近い部分だけでしたですが、

古くからいずれの時代においても、比較して広がりを見るマクロの目線といいますか、

そうしてようやく見えることはやっぱりあるねえと改めて。


世界史と日本史を区分けて見ているだけでは気付かないことがあるのもまたしかり…というのも、

これに近いことと言えるかもしれませんですね。