和モノを主にしている美術館では
「焼きもの」の展示をまま目にすることがありますですね。
ですが、どうもこの「焼きもの」を愛でるという感覚に
立ち至っていないというのが正直なところでして、
これまでもパッと見、チラ見で通り過ぎただけということを毎度繰り返していたわけです。
ですが、あれこれの展示を見てきた中で、
となる作り手に少々気に掛けるようになってきているという。
先に「愛でるという感覚に立ち至っていない」という言い方をしたのも、
この後は「焼きものも愛でるようになっちゃいますかぁ、もしかして」的な機運を意識したからとも。
あれこれあれこれと焼きものに通りすがってきた結果、いくらか養分(?)が蓄積されて、
おそらくそれが表面化したのは、畠山記念館 で見た作品が決め手となったものと思います。
さてその気に掛けるようになった作り手とは尾形乾山、かの尾形光琳 の弟でありますね。
そんなふうな気分になっているところで、
サントリー美術館では「乾山見参!」という展覧会をやっている。
語呂合わせながらも「乾山見参!」とのタイトルにも心躍る感があって、
行ってみたのでありますよ。
そも「焼きもの」にピンとこないにも関わらず、
「なぜ乾山?」とはうまく説明できないのですけれど、
ひと括りに「焼きもの」とはいえ、磁器よりは陶器の方が入り込めそうな気がするとか、
定規で測ったような、あるいは焼きものらしく轆轤で成形したようなきっちりしたものより
手びねりのものに妙味を感じる気がする(気がするばかりですが)とかいうこともあった上で、
後はやっぱり装飾性でありましょうかね。
乾山焼(といわれるらしい)に至る以前の、
前史的な作品紹介の部分では志野焼、織部焼…と言われても、
特徴がどういうものであるか、さっぱり違いの分からないながらも
じいっと見ていったですが、それでも中には「お!」と思うものはあるものですね。
そうした中で「味があるのお…」てなふうに感じて作品名に目を向けてみれば
「黒樂四方茶碗 銘山里」、「赤樂茶碗 銘熟柿」てなふうに書いてあって、
「楽焼なのぉ?」と。
どうも楽焼と聞くと、
場末の観光施設でそうめん流しの傍らでやっている陶芸体験みたいな気がして、
それを美術館で見るってどうよ…てなふうに思ってしまうところながら、
先の「黒樂」の作者である樂道入や「赤樂」の作者、本阿弥光悦といった人たちの手にかかると、
「楽焼=楽しい焼きもの作り」といった安直な受け止め方は吹き飛ぶような。
(楽焼の楽は、秀吉ゆかりの聚楽第の「楽」から来ているという説もあるそうで、由緒あるのですなあ)
とまあ、こんな調子ですから、もっぱら感覚的に第一印象オンリーで見ていったわけですが、
やはり乾山作品にたどり着いたところで、やっぱり「うむ、うむ」と思うのは、
繰り返しになりますが、その装飾性、デザイン性でありましょう。
展示会場出口の直前に、展示作品の一部をどアップで撮った4K映像が流されていて、
これを見ると目の行き届かない部分までクローズアップしてくれ、
それを見た上で実際の作品に戻って眺められば、凄さひとしおとなるのでありますよ。
蓋物といわれる、これ(左上)などはもうジャクソン・ポロックの世界でもあらんかと。
上の画像ではほどんど判別できないでしょうけれど、
これはどこから見ても分かるようなあからさま加減でなく、
先の4K映像を見て戻ったところ、確かに散らしてあるのが分かったという、
この床しさ具合もまたいいのですよね。
とまれ、こうした拙い見方であっても、またじわじわと養分?が蓄積されていって、
いつぞやには「焼きもの」大好きなお年頃になっているやもしれません。
取りあえず今はまだまだですが…。