この間、TVで歌舞伎公演 を見たという話では
「年齢的にはそろそろ興味の対象も…何かしらを「極める」方向へ…」てなことを言いました。


ですが、若い頃にはむしろ興味が特定分野に縮こまらないようにと考えて、
図書館で本を借りるときに「000 総記」から始まる分類で並べられた本棚ごとに
無理やりでも一冊は借り出してみようと試みていたことがありました。


単に好みで選んでいたらおよそ巡りあえない本に出くわすだろうとの目論みで、
その後、哲学・宗教、歴史・地理、社会科学と続く間は難なく乗り切っていったですが、
やがて自然科学に到達した段階で非常なる苦戦を強いられ(何せこてこての文系頭ですから)、
結局のところ最後の文学にたどり着く前に、計画は挫折したのではなかったかと。


まあ、今なら当時よりも受け皿は広くなっているものと自負(思い込み?)してはいますので、
改めて同じようなことに果敢に取り組んでもいいのですが、差し当たりこのところは
近所のさして大きくない市立図書館分館の「外国の文学」というコーナーの、
著者名でAから始まる本棚の1本ごと(10段くらいありますか)に一冊、
面白そうと予想したものを借りて来たりしているのでありますよ。


そんなふうにして出会った本が「毒味役 」であったり「女教皇ヨハンナ 」であったりして、
わりと「外れてない」ことに気をよくしているわけですけれど、その延長でまた一冊。
まあ、これも外れとまで言えないとは思う「妖精写真」という一冊でありました。


妖精写真 (Riverside press)/スティーヴ シラジー


読み終えて、これを書こうかという段階でこの本の表紙カバーの画像でもないものかと
不用意に「妖精写真」で画像検索してみたところ、いわゆるグラビア系のものが
どひゃーと並んでしまい、びっくり仰天。


中には「アグネス・ラム」などという「今どこに?」的な人物とふいに出くわし、
そういえば「妖精」てなふうにも言われていたか…と思い出したり。


とまれ、本書に関してはそうした系統の写真とは全く縁もゆかりもなく、
関わっているのは「コティングリー妖精事件」の方でありまして。


20世紀初頭、イギリスの片田舎で撮影された写真には
人間の少女とともに「妖精」の姿が写っていた?!と物議を醸したものですね。
なまじスピリチュアル系の研究にも熱心であったサー・アーサー・コナン・ドイル が興味を持って
「本物だあ」みたいに言ったものですから、なおのこと大騒ぎに。


いくら20世紀初頭とはいえ、どう見てもまがい物然とした写真に対して
科学的な見識も豊富であろうコナン・ドイルが何を血迷って…と思うところですけれど、
「本当にいたらいいな」といった思いが強いと、もはやそれとしか思えなくなったりするのかも。


本書は、コティングリー妖精事件とほぼ近い時代を背景に
それとは別に「こっちこそ本物」という写真を見てしまった写真家が
実際に妖精の写真を撮影して証拠を掴んでやろうとするお話。
コナン・ドイルも登場しますが、こちらは完全にフィクションですね。


結局のところ、主人公は「妖精が見える」と確信するのですが、
ある種の幻覚作用かとも思わせておきながら、妖精の存否には答えを出さず、
主人公ほかが体験することにも合理的な説明がなされるということはない。


つまり、この話自体がファンタジーと考えれば、
答えを出すことは必ずしも必要のないことなわけですね。


20世紀初頭からすでに100年余りが経過して、
その間にも科学による知見はどんどん深まっているのでしょう。


それでも、やっぱり妖精も幽霊も怪物も存在していると考える人はいるでしょうし、
そこまで行かなくても「いたらいいな」とか「夢がある」とか考える人はいるのでは。


個人的にはレトリカルな存在なのだろうと考えていながらも、
夜中にトイレに行くときには何かしら怖いような気がするとか、
木立の中を歩いているとふと何やらの存在が意識にのぼるとかいうことが無いではない。


たぶん人間にはそうした側面が備わっているのでしょうね。
万物の中に八百万の神を見い出すことは洋の東西を問わず。
そう考えると、本書が描いたのは単にファンタジーとはいえない人間の姿であるのかも。
もっとも主人公が出くわす多難には冒険物的なお楽しみもあるというおまけつきで。


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