と、あたかも「八王子と鉄道」展@八王子市郷土資料館 を見るために
八王子に出かけたような話しぶりになってしまったですが、
一応メインイベントは八王子市夢美術館 の方でして。
「幕末明治の浮世絵探訪-歴史絵から開化絵まで-」という展覧会でありました。
「浮世絵
」と言われて思い浮かぶ絵師の大どころは
喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎 、歌川広重 …とまあ、いろいろ思い浮かびますけれど、
いずれも幕末明治の頃の人とは言えないような。
もちろん二代目広重、三代目広重といった人たちが幕末明治期に掛かる頃に活躍したり、
小林清親 が明治の新しい「光」で光線画を描いたりしていたりはするものの、
どうもこの時期に浮世絵は「旬を過ぎた」感があるような気がしないではないわけです。
が、本展は「浅井コレクション」ということなんですが、
幕末明治期の浮世絵を蒐集したご本人はこんなことを言っていたそうなのですね。
浮世絵は美術品として作られたものではなく、いわゆるかわらばんから進化したもので、情報誌であり、実用品であった。
それを美術品として見るのは後世の視点であって、展示解説の中には
「歌麿の得意とした美人画は、今でいえば人気ホステスのブロマイドのようなもの」であるとも。
いささか実も蓋もないような気もしますけれど、浮世絵は西洋人にとっての新奇さから
たくさん買われていった、つまり商品価値がある、高価なものであるという見方、
そして印象派 はじめゴッホ、ゴーギャン…たくさんの画家に
大きな影響を与えた美術品であるとの見方、いずれも間違ってはいないでしょうけれど、
いずれにしても外から逆輸入された見方と言われれば、それもまたしかりと。
「浮世絵」はその当時の世相風俗その他、まさに「浮世」を映して
「今の流行りはこんなです」てなことを伝える道具であったと考えるのは、
本来的なことなのかもしれませんですね。
ということは「歌は世につれ…」ではありませんけれど、
浮世絵が世相を反映していることもあり、一方で世相が浮世絵を左右することもあるようで。
文化元年(1804年)、喜多川歌麿が太閤五妻洛東遊観之図」を描いたところ、
これが幕府のお咎めを受け、手鎖五十日の刑に処せられてしまうのですな。
歌麿は文化三年に亡くなりますが、この処罰が相当に応えた…とも。
ですが、この刑罰にはピンと来る方も多いことと思います。
神君家康公によって開かれた江戸幕府の体制下、
その当時の他の戦国武将(正確には天正期以降のようですが)を実名で描き出すことはご法度。
取り分け太閤秀吉を描くことはタブーであったわけですね。
ですから、戦国時代の逸話を絵にするときには時代を古く置き換えて、
ちょうど赤穂浪士討ち入りの芝居を室町期に移して物語を作ったようにしたり、
はたまた「羽柴秀吉」を「真柴久吉」てな変名にしてみたりと、しきりと工夫が施された。
(いずれにしても元ネタはバレバレですが、直接的でないパロディーは許容されたか…)
しかしながら、歌麿はしっかり文字でも「太閤秀吉」と書き入れてしまい、
周囲に配した五人妻にも「北の政所」、「淀殿」、「お古伊の方」、「松の丸殿」、「二条殿」、
そして「加賀殿」と書き込んでいて、これでは申し開きのしようもないわけですなあ。
歌麿が何故かくも不注意なことをしでかしたのかは分かりませんけれど、
とにかく自分が得意とした美人画を描きたかったということはあろうかと。
腐敗政治と言われた田沼時代の後、寛政の改革(1787~1793)によって
文武の奨励、風俗の是正が図られる中、美人画は矢面に立たされることになったのようで。
何しろ「人気ホステスのブロマイドのようなもの」であったわけですから。
すると、浮世絵の買い手の側も変にお咎めを受けてはたまらんと思うのが人情でしょう、
人気はだんだんと役者絵、相撲絵へと移っていったのだとか。
さて、困ったのは主に美人画を描いてきた絵師で、
活躍の場が無いというか、著しく狭められたというか。
歌麿は秀吉の五人妻に事寄せて、得意の腕をふるった…てなことでもありましょうか。
ただ、美人画の名手・歌麿はその描く作品にも似て線が細かったのかもですが、
これに比べて歌川国芳の豪放さ、大胆さには舌を巻くといいましょうか。
あれこれの作品を見て、今更ながらそんなふうに思いましたですよ。
と、気付いてみれば、本展の本分である幕末明治期の浮世絵に至る
前史に関わる展示のところの話だけで長くなってしまいました。
とにもかくにも、今後は浮世絵を見る視点の持ち方にひと工夫得られたような展覧会、
幕末明治の浮世絵作品に触れるのはまたいずれの機会があろうかと思われますです。