先に鹿島神宮香取神宮 にある「要石」を訪ねてきたから…というわけでもないのですけれど、
手にとって中公新書の一冊は「江戸の災害史」というものです。


江戸の災害史 - 徳川日本の経験に学ぶ (中公新書)/倉地 克直

確かに「災害」と聞いてすぐに思い浮かんだのは地震で、

それに伴う津波や火災が被害を激甚なものにする。
やはり近しいところで阪神淡路大震災や東日本大震災のときの映像、

そして後者の場合には揺れの感覚、その辺りの記憶からということになりましょうか。


ですが、本書で災害にカウントされていたのは地震ばかりでなくして、
火山の噴火、大火(必ずしも地震によらない)、疫病、洪水、旱魃、
そしてそれらのいずれか、あるいは複合的に原因しての飢饉といったものも

取り上げられておりました。


とはいえ、そうした災害の規模を示して「江戸時代は大変だった…」というのではなくして、
こうした災害にどう対処するか、はたまた対処する姿勢を培ってきたかという点が主であって、
そのあたりは「歴史に学ぶ」こともできようというわけですね。


そうはいっても、今とはさまざまな点で違いがありますから
やっぱり大変な時代だったろうとは思うところです。
疫病の流行では差し当たりインフルエンザくらいで済んでいますし、
火事は日常的にあっても東京じゅうを焼き尽くすような大火は発生しないでしょう、今はおそらく。


火山の噴火や地震は今も昔もと言えないではありませんが、
江戸期には富士山が噴火して広範囲に影響がでたり、
東海地震、南海地震、東京湾直下型地震が立て続けに起こったりということがあったわけで。


まあ、災害の多い少ない、その規模の大きい小さいということよりも、
対応方法として今ほどあれこれの手立てが無かった江戸時代の人たちは

輪をかけて大変だったのだろうと思ったりしたのでありますよ。


そんな災害頻発の世の中にあって、

自分ひとりでは、また家族だけでは対応できないことへの対処として

より上位の所属レベルといいますか、村落単位、大名の所領単位、あるいは国の単位で

何をすべきか、それぞれに「公共」的な意識が醸成されて広がりを見たのが

江戸期だったようでありますね。

 

もはや戦国乱世ではなく、徳川将軍の下で安定した世の中が実現している…ということは、
幕府の側としても安定した世の中を現出させねばならなくなりますね、表向きであるにせよ。
日本の君主たらんとすれば、一大名が自分の所領を見るように全国に目配りしなければならない。


それは最初は叛乱、反逆の芽がないかという目線だったかもしれませんけれど、
全国に安寧、安定がもたらされているかという目配りもせんならんようになっていったわけで。


天下普請として諸大名に命じるのも、
お城造りばかりでなくて河川の築堤工事のような災害対策になっていったりするのですね。


一方で、民間レベル、卑近なレベルでの災害対策としては経験を語り継ぐことでもあったそうな
最初は被災者慰霊のために碑が建てられるようになったものが、
後には「教訓碑」として同様のことが起こっても被害に遭わないよう教えを残す碑ができたり。


碑を建てるのもタダではできませんから、村の有力者が出し合ってとなりますが、
これも結局のところ「村のため」という公共意識と言えましょうね。


とまあ、本書の内容をここまで簡単にしてしまってはいけんのでしょうけれど、
まじめな話はほどほどに?ちと興味本位の話をあと少々。


冒頭に触れた鹿島神宮、香取神宮の要石。
地震を起こす大なまずを押さえつけているとして知られていますけれど、
古来の伝承で言えば「鯰」でなくて「龍」なのだそうですね。


元来、日本は龍神に取り巻かれて守られているところが、
その遇し方に手抜かりがあると「荒神」となって起こることのひとつが地震であると。


それがいつの間に「鯰」に変容したものやらはっきりしないようすながら、
地震と鯰を結びつけて書かれた最古の史料が文禄元年(1592年)の書状とは、

あまり古くはないような。


ちなみにこの書状、豊臣秀吉が前田玄以に送ったもので、

伏見地震という大地震を経験したことから「ふしみのふしん、なまづ大事にて候」と

伏見城の築城中だけに、なまづ=地震を気にかけているものだとか。


秀吉がかように書いた当時、あるいはそれ以降の時期になまずと地震を結びつける考え方が
どのように広まり定着していったのかはわかりませんけれど、秀吉の書状から200年余りのち、
文政十三年(1830年)に京都で地震が起こった時に売り出された瓦版に鯰の絵が登場したそうな。


そしてこの「鯰絵」はもそっと時を下った安政江戸地震(安政二年・1855年)の際には大流行。
地震の発生が神無月だったことから、なまずを押さえる鹿島の神様が出雲に出かけて
その隙になまずが暴れたという、地震原因をイラストで伝えるのが「鯰絵」でもあったかと。


これがスムーズに受け入れられるということは、
すでに鹿島の要石はなまず押さえであると広く知られていたのでしょうかね。


と、それはともかく大きな地震はスクラップアンドビルドのタイミングとも見られるところから、
庶民の間では「世直り」の契機と見る向きもあったようす。


その点で、安政という時代からして黒船の到来=世直りの契機ということと
重ね合わせて考えられたのも「鯰絵」大流行の背景ではないかては話でもありました。
そう言われてみると…と思ったのが、なまずと黒船ってイラスト的には似てるような気が…。


だんだんと余談が過ぎてきましたのでこのあたりにしておくとして、
災害に対する際の心構えとして必要なのは「思いやり」でもあるかなと。
近頃はやりの「おもてなし」よりもずっと日本人の徳を示していると思っているのですが、
いささか廃れ気味なのでしょうかね…。


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