やおら花、花、花と来て、いったいどこぞのフラワーガーデン にでも出かけてきたのか…

という風情を醸しておりますけれど、なあに大したことはないのでありまして、

民芸の展示 を見た後に池袋西武の屋上に上がってみた、とまあ、それだけのお話でして。


昔むかぁし、足立区に住んでいた子供の頃は

長いことバスに乗って池袋のデパートに連れて行ってもらうというのが

そりゃあもう大変な楽しみでありました。


玩具売り場には山のようなおもちゃがあり(そうは買ってもらえませんでしたが…)、

食堂ではごはんに旗の立ったお子様ランチもありました。

屋上に上がればプチ遊園地に遊具が動き回っていて、

子供には一日いても飽きない世界ではなかったかと思い返すのでありますよ。


もっともそれが池袋西武の思い出であるかというと、そうでもなくってですね、

かつては西武百貨店のお隣に「まるぶつデパート」というのがありまして、

今はパルコになっているところですけれど、どうも子供の頃の記憶としてはひたすらに

「まるぶつ」の印象ばかりなのですが。


とまれ、デパートの屋上というのは昭和を思い出させるところでもあるわけですが、

今はいろいろと使い途を考えているようなですなあ、百貨店も。

この池袋西武では屋上を「食と緑の空中庭園」と称していたりするのですなあ。

で、冒頭の写真はその庭園部分、「睡蓮の庭」と銘打ってありました。



「睡蓮の庭」となれば当然にして思い浮かぶものがありますですよね。
実際、案内には「印象派を代表する画家クロード・モネが愛したノルマンディーの

『ジヴェルニーの庭』、そしてモネ晩年の大作「睡蓮」にインスピレーションを得て

造園されたもの」と書かれてある。

もっとも時季外れのせいか、睡蓮は全く見られませんでしたけれど、
その代わりに諸々の花が植えつけてあって、

見るの者の目を楽しませるように設えてあるのでしょう。


と、ここでふと思い出すのが、庭の設えということなのですなあ。
「庭」というのは元来、人工的なものであって、
例えばちょいと前にデンマークのフレデリクスボー城 で見たような幾何学的な植栽はもとより、
イングリッシュ・ガーデンのように自然らしさを装ったものでも、いずれにせよ、
それぞれに「らしく見せる」ための人手は大いに掛かっていますですね。


そうしたときに翻ってモネのジヴェルニーの庭は?と考えてみれば、
モネが自身の理想の庭を造るためにやはり相当に人手を加えておろうなということ。
柳が枝垂れかかる水面を跨ぐ太鼓橋といった景観を思い浮かべるときには、
そうした人為性を考えてみることもないような気がするのですけれど。


で、太鼓橋の下の池には水面のあちらこちらにちょっとずつ睡蓮があって、
景観にアクセントを加えている…と、実はこの睡蓮もその場にあることは至って人為的な
作業の結果だとは思いもよらなかったですが、先に読んだ「モネとジャポニスム 」には
このような一文があったのですなあ。

睡蓮が普通に池や川に咲いているとしたら、そのまま無尽蔵に草のように広がるだけですから、とてもじゃないですが絵のモチーフにはならないと思います。睡蓮を絵画のモチーフになるまで造形的に見せたというのは、彼の設計能力であり、デザイン能力であったと思います。

より具体的には、ここに睡蓮があるべきという場所に鉢植えの状態のものを沈めて、
モネの考えるバランスに合うように睡蓮が「置かれた」のだそうでありますよ。


自然のままの美しい景観というのは確かにあるにしても、それはそこここにあるわけではない。
となると、やっぱり「ピクチャレスク 」的な発想で造り出すことになりましょうか。


とかく自然と人工を対比して、自然を賛美しがちなところがありますけれど、
その実、人為的に自然を装った景色を何らの違和感なく受け入れるところもある。

なかなかに難しい問題であるな…などということを考えてもみたという
デパート屋上でのひとときでありました。


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