とまあ、蕗谷虹児と高畠華宵という二人の抒情画家を扱った特別展示 コーナーを
先に見て回った「にいがた文化の記憶館」ですけれど、
本来的には郷土の偉人の功績を伝えるというのが展示の主たるものでして。
ですが、こういっては何ですが新潟と聞いて即座に思い浮かべるのは
田中角栄くらい?でありましょうかね。
そもそも、といっては語弊がありましょうけれど、
新潟県はその昔の越後国であるわけですが、戦国の世には上杉謙信、上杉景勝が出て
越後の存在感は相当にあったものの、その後はなかなかにピンとこない歴史背景ですし。
これは「明治22年まで、全国一の人口を誇ってもいました。それだけの人間を
養うことが出来る経済的基盤があったのです」とこの施設紹介リーフレットにあるように
豊かな土地であったところへ大きな大名は置きたくないと支配者の思いからでもあるようで。
豊臣秀吉が上杉景勝を会津に移した後、徳川の世には「越後十三藩という中小大名の領地と、
幕府直轄の天領が入り乱れる状況」に置かれたことがやはりリーフレットに載っていますけれど、幕末まで一国としてまとまって力を発揮するという機会が奪われてしまっていたのでしょう。
県庁所在地である新潟市もかつては周辺の藩の下に置かれた港であって、
ここに大きな転機が訪れたのは日米修好通商条約(1858年)によって
開港場のひとつとなったときでもあろうかと。
対外的な通商窓口のひとつとして明治を代表する町となり、
県庁所在地にもなったのではないでしょうか。
となると、街なかにも近代以前の歴史を偲ぶよすががあまり見当たらず、
ついては新潟の偉人…?と、思い浮かびにくくなったりするような。
ということでかくも予備知識が無いところを「にいがた文化の記憶館」の展示でもって
いざ知ってみれば…というあたりを少々書きとどめておこうかと思った次第でありますよ。
いささか解説を鵜呑みにするところはありますけれど、
古来、越後・佐渡は遠流の地であったことから反骨精神に溢れた人たちがいるようで。
もっとも流されてきた順徳院、日野資朝、京極為兼、世阿弥、親鸞、日蓮といった人たちは
新潟の人ではないわけですが、そうした人たちが持ち込んだ文化が新潟に継承される際には
その人たちの反骨精神までが受け継がれていったのかもしれませんですが。
とまあ、そのような人物のひとりが日本画家の尾竹竹坡でしょうか。
初期文展(文部省美術展覧会、現在の日展につながる)では
上位に入る評価をされていたそうなんですが、岡倉天心や横山大観と対立し、
後には画壇から相手にされなくなっていってしまったそうな。
そうしたことで日本美術史に詳しくない者としてはあまり聞かない名前と思ってしまうも、
なんとまあ、この反骨の画家が蕗谷虹児の師匠にあたったのですなあ。
画壇での対立といえば、岡倉天心が進めた伝統美術至上主義といいますか、
そうした方向性に異を唱えた洋画家の小山正太郎も新潟・長岡の出身だそうですよ。
また京都画壇の展覧会@敦井美術館 のところで触れました土田麦僊も
京都画壇の人と言いつつ、出身は佐渡ということです。
京都にあって文展の審査に不満を持った人たちが集まって結成された「国画創作協会」、
そのメンバーであったのが土田麦僊、やはり大勢に流されることはないようですね。
どうも画家ばかり紹介していますけれど、
それ以外にも、例えば北一輝とか坂口安吾とかいう名前が挙がってきますと
「なるほど」と思ってしまいそうでもあるような。
かといって反骨の人ばかありというわけではないのはもちろんでして、
坂口安吾ついでに今度は文壇から(順不同で)拾ってみますと、
詩人の西脇順三郎、歌人の宮柊二、児童文学者の小川未明、
そして作家の山岡荘八といった人たちに行き当たるという。
そういえば、夏に訪ねた糸魚川 には駅前に相馬御風の碑がありましたっけ。
童謡「春よこい」や早稲田の校歌「都の西北」の作詞者である相馬御風、
この人も新潟の人でした。
まあ、そんなこんなの人物紹介があったという「にいがた文化の記憶館」なのでありました。