…ということで父親の入院に付き添ってきたわけですが、
最近の入院というのは特段荷物持ちなどはいらないようですなあ。
なんでも結構レンタルできてしまうということで。
この後、いざ自分が入院てな事態が生じたときにも
荷物は最小限でいいのだなてなことを学習できたりもするという効用があると言いますか。
そんな具合で自宅から持参するのは必要最小限でいいとなると、
何のために付いて行ったのやらと思うところながら、実は役に立ってしまったような。
と言いますのも、父親からは検査入院と聞かされており、
本人も母親もみなそのつもりでいたわけですが、
いざ病室に赴いて看護師さんと父親との話を傍で聞いていますと、
なんだか噛み合っていないようでちと口をはさんでしまったのですな。
「もしかして、今回は検査入院ではなくして、治療のための入院、要するに手術なんですか」と。
戸惑ったのは看護師の方で「先生からはどういう説明だったのでしょうか」と父親に問うも、
本人は去年もやったのと同じ検査と思い込んでおり、そういうつもりでしか話を聞いていませんので
どうやら都合の悪いことは耳に入っておらなかったようす。
重ねて口を挟んでしまったことには、
「もしかして検査というよりは些かなりともリスクを伴うのでしょうか」と。
またしても怪訝な表情の看護師が父親が署名した用紙のコピーを取り出して、
今回の処置に関してはこのように記載しておりますが…というところを示すわけです。
見れば、基本的には難しいことのない手術ながら、
可能性としては死亡(0.1%)から始まる数々の可能性が示唆されているのですな。
可能性のあるものは列記してあるということなのでしょうし、
死亡に至っては1000人に一人しかありませんと言えるも、
逆に言えば1000人に一人は死んでしまうかも…ということでもあるわけです。
だからといって即座にその1000人に一人となることを疑い、思い悩むわけではないですが、
本人があまりにそうした今回の処置に無頓着でいることにイライラしたりもしたという。
あいにくと母親は母親で昨日買い物帰りにすっころんでしまい、
脚やら手やらに内出血して(自己申告的には骨は折れていないというのですが)
とても父親の入院には付き添えないようすなので、
後からこの顛末を報告すると自分のことは棚上げであきれ返っているようす。
付き添って行く前には、齢を重ねたものの老親二人で何とか日々やっていることを
ラッキーなことととらえたりもしましたですが、やはり何から何まで任せきりにしていたのでは
いったいどうなってしまうことやらと思い知らされたのでありました。
人生が長くなっている分、どのように向き合い、どのように処していくか、
やがては我が身と思えばこそ考えてしまいますですなあ。