Simplog

昨日、息を引き取ったこの泥鰌の話を書こうと思う。

 

 このアルビノの泥鰌が我が家に来たのは、ちょうど昨年の初夏の頃だった。数ヶ月の間、ひと月に数度、義母が所用で足利まで通っていたので、その最後の日に、皆で足利までドライブし、食事をして帰ろうということになった。ぶどう棚を作っている障害者施設の併設のレストランで遅めのランチを頂いて、土産などを買い求め帰路についた。

 帰り道、羽生の「道の駅」に立ち寄った際に、この泥鰌を見つけたのだった。500円という値札に、この希少種が・・・安い!と思い、衝動買いで飼うことにした。泥鰌だけでは寂しかろうと一緒に目高も数尾買った。

 この赤銅色に光る体躯は、何かしら富をもたらしてくれそうなツキを持っていそうな気がした。決して運とかツキとかそういう神頼み的なものは信じない自分なのだが、今回ばかりは何かしら予感的なものを感じた。仕事の商談がまとまれば、泥鰌にも餌を多めにやったことを思い返す。冬の間、あまり動かなかった泥鰌は、頭より体躯の方が太くなって、なかなかの貫禄をつけていった。どうも水替えのタイミングを見誤って、目高は数匹死んでは、入れ替えてと、育成することを少しずつ会得していくようだったが、泥鰌に限っては常に元気で多少汚れた水でも平気で暮らしていた。

 一年が過ぎ、今年の初夏、目高が産卵を始めると、その生殖や卵の抱き方などに目を見張った。結局は有精卵になるところまではいったが、たかが五匹程度の目高では、卵を孵すまでの確率が低いことを認めざるを得なかったのだが、そのうちに泥鰌も死んだふりをするようになった。鰓も動かさずじっとしているのである。死んだかと思って突っついてみると素早く逃げるので、生きていたのだと確認した。

 目高の方は、卵を数度抱えた雌から体力も衰え死んでいった。そして昨日、最後の雄も死んで浮いているのを見つけた。これを機に、水を一度替えてやろうと思い、水槽の水をポンプで吸い上げていると、この泥鰌、なぜかもの凄い抵抗をした。狂ったように水槽の中を逃げ惑い底の石を尾鰭で巻き上げては、潜り隠れたりした。今までも水替えの際は同じように隠れたりしたのだが、今回はその凄まじさが違った。水を替え終り、しばらくすると隠れていた泥鰌が立ち泳ぎの形で浮いて喘いでいる。その身体には自身で付けた傷が多数あり、髭も血が滲んでいた。その姿は「弁慶の立ち往生」の様のようであり、自分の水替えの誤りを物語るようだった。

 振り返れば、泥鰌は泥鰌なりの一生を終えたのだろうが、自分のせいでその寿命を短くしたことが悔やまれた。なんとなく自分の運も尽きたように思われて、それを悔やんでいる自分の心が何かあざとく感じられた。

 

 去年、何かを変えたいと思い飼い始めた泥鰌、そして同じ頃から始めた書道・・・。今日、その競書の提出に出掛けるのだが、先週、この競書を始めた際に、教室のお一人が「俳句も書も書斎でなさるんでしょう?書斎にも『○○庵』とか名付けたら宜しいのに?」と言われたことを思い出した。その場は照れくさく感じたのだが、泥鰌が死んだことで変なツキから解放されたような気もした。そしてまた、この泥鰌の死に様は古来の英傑の戦死のようでもあり、諸葛孔明の詩が思い出された。「白雲悠々去り復た来る」。

 

 芭蕉は自身の庵を「芭蕉庵」と名付け、北原白秋は「紫烟草舎」と名付けた。自分はこの小さな我が家を「白悠草庵」とでも呼んでみようか・・・。