義 父 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日は、中高年世代のクラシック音楽ファン・・それも私より年上の方には特にお馴染みの、20世紀前半を代表する指揮者、

 アルトゥーロ・トスカニーニ
      Arturo Toscanini

 

の命日・没後60周年にあたります。

トスカニーニは日本では明治時代に入る前年の1867年にイタリア・パルマで、仕立屋を営む父親の4人兄妹の長男・唯一の息子として生まれました。

4歳の時に初めて劇場に連れていかれ、オペラ 『仮面舞踏会』 を観て感激した彼は、9歳でパルマ音楽院に入学。

当初は作曲家を目指していたそうですが、ワーグナーの楽劇 『トリスタンとイゾルデ』 を観てそれを断念。

チェロ科に移籍するも、そのチェロと作曲で最高の栄誉を受け主席で卒業し、18歳にして主席チェロ奏者として巡業歌劇団と契約。

しかし翌年突然その歌劇団で指揮者としてデビューすると、以降は指揮者として活躍し名声を高めていきました。


   

(極度の近視だったため)演奏曲目を完璧に暗譜し、極力楽譜に忠実に演奏するのが彼の演奏スタイルで、早いテンポで統一されたアンサンブルを崩さぬ指揮ぶりはフルトヴェングラーと対照を為し、カラヤンを始め多くの後進指揮者に影響を与えました。

レパートリーも広く、またスカラ座やメトロポリタン歌劇場の音楽監督に就任した彼は、単に指揮するだけでではなく、オーケストラの人事やオペラハウスの構造にまでも口を出したとか。


完璧主義者だった彼は、上の写真からもお分かりの通り(?)、よく言えば情熱家であり悪く言えば癇癪持ちの気難しい性格の持ち主。

リハーサルではしょっちゅう怒鳴り、時には譜面を床に叩きつけたり・・・ある時は指揮棒の先で楽団員の手を刺して訴訟沙汰になったことも。

しかしこれは当時楽団員が好き勝手に演奏する傾向があったため、それを統制するための手法だったことも否めません。

従って楽団員との関係は、決して悪くはなかったといいます。

政治的には反ナチズムを明確に打ち出し、宿敵フルトヴェングラーとは犬猿の仲だった一方で、エネルギッシュなイタリア人らしく(?)女性関係もかなり派手だったそうですが、歳には勝てず。

1954年4月にワーグナーのタンホイザーを演奏中、記憶障害に陥って指揮を一時中断してしまい、その直後に引退を発表。

このあたり、噺を途中で忘れ絶句、「申し訳ありません。もう一度勉強をし直してまいります」と言って高座を降り、二度と上がらなかった8代目・桂文楽師匠と重なります。

そしてそれから約2年半後の1957年1月16日・・・脳血栓の発作に襲われ、89歳でこの世を去りました。

さて、私自身は殆どがモノラル録音の彼の演奏は正直あまり聴いたことがありません。

それでも彼の存在は私の中では決して小さくないのです。

それは、我が敬愛するピアニスト・V.ホロヴィッツの妻が、彼の娘ワンダだから。

     

 

1932年にベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番で初共演を果たしたトスカニーニとホロヴィッツですが、これを聴いたワンダが彼に一目惚れ。

このリサイタルに先立つリハーサルの際、楽団員から

「絶対に遅刻するな、怒鳴り声が響いても驚くな、反論するな」

と忠告されていたという
新進気鋭の若手ピアニストが、その大指揮者の娘のアタックから逃げられるわけもなく・・・2人はめでたく(?)結婚。

そのおかげか、20世紀を代表する指揮者の義父と、20世紀最高のピアニストと称されるホロヴィッツの超豪華協演のいくつかは、録音に残されています。

我が家には、ブラームスのピアノ協奏曲第2番と、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番が収められたこのCDが・・・。

    


若きホロヴィッツの熱気を、義父がガッチリ受け止めて火花を散らすかのような激しい演奏は、間違いなく20世紀の名演。

※お時間のある方は、こちらでチャイコフスキーの演奏をお聴き下さい。

   https://www.youtube.com/watch?v=yOicWK05pWk

しかし私生活においては、さすがのホロブィッツも義父には頭が上がらなかった模様。

そのトスカニーニが亡くなって、心の重荷が少し軽くなったはず・・・なのに、そのホロヴィッツが1989年に亡くなると、ワンダ夫人はなんと夫をその義父の墓の隣に埋葬したのです。

嗚呼、哀れにもホロヴィッツは永遠に義父の呪縛から解かれることはないでしょう。

世の男性方・・・思い通りに埋葬して欲しかったら、奥さんより長生きしなければなりませぬぞ!あせあせ



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