独 裁 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

皆さんは、〝ファシズム〟という言葉をどう和訳されるでしょうか?

これは第一次世界大戦後の1920年代から第二次世界大戦が終結した1945年まで、世界の多くの地域に出現した、強権的・独裁的・非民主的な政治活動・体制・思想を指しますが、現在は一般的に〝独裁〟という意味合いで使われています。

そしてファシストというと、多くの方がヒトラーをイメージされると思います・・・が、この〝ファシズム〟はドイツ語ではなく、イタリア語の〝ファッショ〟という束・集団・結束という意味の単語が語源。

今日は、ヒトラーがドイツの首相になる10年以上前から
ファシスト党を率い、22年余りもイタリアの首相・統領を務めた・・・つまりはファシズムの本家、

 

 ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ

      Benito Amilcare Andrea Mussolini

 

の命日にあたります。

 

       

 

ムッソリーニは1883年にサヴォイア朝イタリア王国で鍛冶屋の息子として生まれました。

彼の名前は、メキシコの初代大統領ベニート・フアレスの〝ベニート〟、革命家アルミカレ・チプリアニの〝アルミカレ〟、イタリア社会党のアンドレア・コスタの〝アンドレア〟と、それぞれ社会主義者で政治活動に熱心だった父親が尊敬する政治家から取った名前をくっつけたもの・・・彼が政治家なったのは、生まれた時から宿命づけられていたのかもしれません。

 

少年期の彼、腕っぷしの強いガキ大将でしたが、寡黙で単独行動が多かったとか。

早くも〝独裁者〟の素養が芽吹いていたようですが、学費の多少によってクラス分けされる寄宿学校ではキリスト教の説く平等と現実のギャップに怒り、学業は優秀だったにもかかわらず教師にインク瓶を投げつけたり上級生をナイフで刺すなど、超がつく問題児。


それでも1901年に師範学校を首席で卒業した彼は、グアルティエーリという町で教師となり、評判は上々だったとか。

しかしそんな平凡な生活に飽き足りなかったのか、彼はやばて教職を捨ててスイスに移住。

職を転々とし一時は浮浪者にもなったそうですが、彼は同地で社会学者パレートの講義を聴いたりレーニンの秘書から薫陶を受けます。

マルクス・レーニン主義を徹底的に学んだ彼は、1903年にスイスで起きた大規模なゼネストに参加したことで当局からマークされ、翌年国外追放(後にもう1度、累計2回)。

イタリアに舞い戻った彼は、1905年に徴兵され2年間兵役に就いた後、一時期教師に復帰したものの、1908年にイタリア社会党トレント党支部に配属され本格的な政治活動に入ります。

1914年に民族主義と社会主義を結合をした独自の政治理論、すなわち〝ファシズム〟を着想した彼は、イギリスからの資金援助を受けて日刊紙を発行したことで、イタリア社会党から除名に。

(同党はその後離党者が相次ぎ、弱体化。)

彼は1919年に政治団体 『戦闘者ファッショ』 を結成し2年後に議会選挙に出馬すると、35議席を獲得し、政党を再編して 『ファシスト党』 を結成。

翌年にクーデターを成功させ、臨時政権を樹立し首相の座に。

その後選挙法を改正するなどして解散政党の支持票を吸い上げると、1928年には王国議会を解散させ、ファシスト党の諮問機関 『ファシズム大評議会』 に立法権限を移行し独裁体制を確立。

翌年に行われたイタリア総選挙では、国家ファシスト党以外の参加は認めず、投票用紙には“Si (はい)”と“No (いいえ)”の2項目のみ。

結局誤解の全議席を同党が独占する一党独裁制に。

しかし独裁者となって彼の存在が神格化・カリスマ化されていくのに比例して、彼の孤独感は強まり、唯一心を許せた弟・アルナルドが亡くなったことで、更にそれは強まっていきました。

彼の女性好きは有名で、自伝には14名の女性が登場し、更に執務室では300人以上(!)の女性と情事をむさぼったそうですが、もしかしたら女性だけが彼の孤独感を癒してくれたのかもしれません。

 

その後エチオピア戦争を経て同国を併合し、スペイン内戦にも介入したイタリアは、1937年に日独伊三国協定を締結。

       

              ムッソリーニ(左)とヒトラー

しかし翌年にエジプト侵攻をイギリスに阻まれ風向きが変わると、1943年には連合国軍にシチリア島を占領され、国内でクーデターが発生。

ヒトラーに救出されたムッソリーニはイタリア北部にイタリア社会共和国を建国し、統領に収まりますが、もはや盛り返す勢いはなし。

 

1945年4月25日に同国が崩壊すると、彼は家族を亡命させていたスペインに出国を試みるも、その途中ガリバルディ自由旅団に身柄を拘束され、形ばかりの人民裁判にかけられた後4月28日に側近や愛人と共に処刑。

(ただし、この処刑に関する細かい経緯は現在でも謎のまま。)

彼らの遺体は翌日ミラノ市に運ばれ、逆さ吊りにされて市民の眼前に独裁者の哀れな最期として晒されました。

しかし、ドイツにおけるヒトラーのそれと違い、ムッソリーニのイタリア国内での評価は決して低くないそうです。

国王と信頼関係を築き、短期間にイタリアをヨーロッパで最初に近代化に導いただけでなく、積極的な雇用政策を推進したり、マフィアを徹底的に弾圧したことなどから、名宰相だったという国民も多いとか。

またモータースポーツを愛好し支援したことが、フェラーリやアルファロメオの台頭を支援に繋がり、同国をサッカーの強豪国にした下地を作ったという方もいます。

イタリア人以外でも、彼の政治手腕を高く評価する方がいますから、【ムッソリーニ=ファシズム=悪】 と割り切るのは、単純に過ぎるかもじれません。

彼がどんな政治家であったのか詳しく知りたい方には、この書籍をオススメします。


『ムッソリーニ  イタリア人の物語 (中公叢書・刊)

 

       

 

著者のロマノ・ヴルピッタ氏は幼少時ムッソリーニに抱きかかえられた経験を持ち、イタリアの外交官・作家であると同時に京都産業大学の名誉教授で、同著は彼が 「ムッソリーニをよく知らない日本人のために」 口述筆記ながら日本語で書き下ろしたもの。

したがってヒトラーより遥かに日本に親近感を抱いていたというムッソリーニの人物像や生涯・思想が、翻訳のズレなく私たちに伝わります。

彼の敵であった英首相チャーチルは、英語・独語・仏語に堪能で通訳なしで各国首脳と会談した彼の名を20世紀の偉人の1人として挙げ、「ローマの精神を具現化した現在の最大の法律制定者」と高く評価していたとか。

また20年以上首相の座にありながら、国会議員としての報酬だけを受け取り、首相としての報酬は一切辞退していたとのこと。

そして4回の暗殺未遂と2回の飛行機事故、更に戦場でも爆弾爆発に遭遇しながらも生き延びた強運の持ち主・・・と聞くと、この人物に対する興味が湧くことでしょう。

 

独裁者というと、とかく悪の象徴として捉えられがちですが、一方で有事の際は時間のかかる合議制より1人の強いリーダー(英雄)が求められます。

 

果たしてムッソリーニは、そのどちらだったのか?

その答えは、皆さんに出していただきたいと思います。

 

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