護 国 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今日・1月10日は、

 湯地 丈雄 

 

の命日・没後105周年にあたります。

 

       

と言われても、また顔写真を見ても、彼がどんな人物かを知る方は、殆どいないでしょう。

かく言う私も、昨年ある雑誌でこの人物の存在を知ったのですが・・・今日はこの方の知られざる偉業について、皆さんにご紹介致します。

湯地氏は1847(弘化4)年に熊本藩士の家に生まれました。

西南戦争に従軍後、上京して警視庁に入った彼は、40歳の時に福岡に赴任。

その時期に起きた『長崎事件』が、彼の人生を運命づけることに。

1886(明治19)年8月に、清国・北洋艦隊の4隻の軍艦が修理のために長崎港に入港し、許可なしで500人もの水兵が勝手に上陸。

その一部が焦点に押し入って商品を強奪したり婦女子を追い掛け回すなどの乱暴狼藉を2度に渡って働き、それを制止しようとした警官や人力車の車夫と衝突。

清国人4名が死亡し50余名が負傷、一方の日本人も警官2名が死亡し約30名が負傷したというもの。

この時も清国は一切謝罪せず、これによって日本国内に反清国感情が高まり、後の日清戦争突入への導火線となった事件でした。

この事件の視察のため長崎入りした湯地署長は、その惨状を目の当たりにして清国人の傍若無人な振る舞いに激怒。

国防の大切さを痛感すると同時に、600年前の元寇襲来により管轄する福岡でも蒙古人らによって多大な損害を被った事に思いを馳せ、

「今すぐに自ら奮い立ち、日本国民を啓発し国防精神を高めなければ、元寇よりも恐ろしい外患を受け、悔いを残すことになる。」

との危機感から、福岡に元寇の記念碑を建立する決意を固め、県知事に具申します。

しかし思うように寄付金が集まらないことに業を煮やした彼は1890年3月に警察署長を依願退職すると、元寇や長崎事件、更には清国の実態を資料にまとめ、それを全国の心ある人々に送ると共に寄付金を集めるべく遊説行脚へと旅立ったのです。

1891年から1902年までの12年間に全国を隅なく歩き回り、400回を超えた講演会の聴講者は累計126万人に及んだそうですから、その執念たるや凄まじいばかり。

その労苦が実り、日露戦争の最中だった1904(明治37)年12月25日に、元寇襲来時に伊勢神宮や熊野二山を訪れて国家の安寧を祈願した亀山上皇像の除幕式に漕ぎ着けたのです。

※この銅像は、日清戦争における戦利品の銅材で作られたそうな。

 

       

 

(ちなみに蒙古軍と対峙したのは、亀山上皇ではなく北条時宗。 
なのになぜ彼の銅像にならなかったかというと、彼がほぼ同時期・同地に建立された銅像
の日蓮上人を迫害した人物だったからだそうな。
 

しかし湯地氏はこの時宗の墓がある鎌倉・円覚寺に参詣し、その翌

年1903(明治36)年4月4日に挙行された時宗の慰霊祭の復活に 多大な尽力をされています。)

 

この高さ4.8mに及ぶ巨大な銅像は、元寇襲来のあった博多湾を見下ろす博多区の東公園にあり、日露戦争後に連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥も詣でたといいます。

 

 
           
しかしこの銅像には、半生をかけて建立に取り組んだ湯地氏の名はどこにも刻まれておらず、内職をしながら支えた和子夫人と我が子の名を自分の名と共に刻んだ小石を、そっと台座の下に埋めただけだったとか。

清貧の中、更に護国水雷艇の建造を目指しながら、過労による脳溢血により1913(大正2)年1月10日に67歳で突然この世を去ったこの無名の元警察官の生涯について詳しく知りたい方には、この書籍をお勧めします。

 『湯地丈雄 元寇記念碑 亀山上皇像を建てた男
                       (仲村久慈・著 梓書院・刊)

 

       

 

とかく人間は、身の危険に晒されないと真剣に防御を考えぬもの。

しかしこと国防に関しては待ったなし、核兵器のある21世紀に於いてやり直しは効きません。

口先の話し合いや憲法の条文で敵が手を引くなどと、努々思わぬことです。

もし湯地氏が現在の日本を見たら、それこそ頭から湯気を上げて激怒することでしょう。うー

 

 

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