黒船に乗ったペリーが浦賀に来航し、日米和親条約を強引に締結したのは、1854年のこと。
これは東アジアでの交易を目指すアメリカが、太平洋航路の重要補給拠点として日本に目を付け、開港させることを目的としたものでした。
その後本格的な貿易を行うために
日米修好通商条約
Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan
が締結されたのが、今からちょうど160年前の今日・1858(安政5)年6月19日のことでした。
条約原本(重要文化財)
和親条約締結後、初代日本総領事として赴任したタウンゼント・ハリス(1804-1878)が江戸幕府と交渉の末締結に成功したこの条約は、
◆日米友好関係の維持
◆横浜・長崎・函館・新潟・神戸5港の開港
◆日本とヨーロッパ諸国間に問題が生じた場合は、アメリカ大統領が
仲裁する
◆輸出入品は、全て日本の税関(運上所)を通す
◆アヘンの輸入禁止
◆外国通貨と日本通貨は同種・同量で通用する
等々を取り決めています・・・が、一般的に不平等条約として知られています。
Townsend Harris
その理由は、
①アメリカの領事裁判権を認めた
つまり、日本国内でアメリカ人が犯罪を行った場合、日本の国内法で
はなくアメリカ領事館内で米国法に基づき裁く。
②日本に関税自主権がなく、アメリカに都合のよい取り決め。
③片務的最恵国待遇
これは和親条約締結時から継続されたものでが、もし日本がイギリスやフランス等アメリカ以外の国と、アメリカと結んだ条約よりも有利な条件で条約を結んだ場合は自動的にアメリカともその条約を結んだことにするという規定。
逆にアメリカが他国と有利な条約を結んでも、日本にその恩恵は与えられないということ。
明治政府にとっては、この江戸幕府が結んだ不平等条約の是正が喫緊の課題になりましたが、関税自主権の撤廃できたのは締結後半世紀以上経過した1911(明治44)年に、小村寿太郎の尽力によって『新通商航海条約』を締結した時。
この条約締結は、日本国内にも大きな影響を及ぼしました。
天皇の勅許を得られぬまま、アメリカの圧力に押し切られる形で条約締結に踏み切りましたが、最後まで勅許を待とうとした大老・井伊直弼は、激怒。
(後に日本使節団をアメリカに送り届けた)アメリカの軍艦ポーハタン号上で調印した開国推進派の井上清直・岩瀬忠震を排除し、更に将軍継嗣問題で対立する幕臣・志士・公家を大量に処罰(安政の大獄)。
USS Pawhatan
これに反発した元水戸藩士らにより井伊大老は暗殺されてしまいます。 (桜田門外の変)
※井伊直弼・桜田門外の変に関する過去記事は、こちら。(↓)
もしこの時条約を締結しなければ、更に外圧が増したでしょうから、やむを得ない判断だったとは思います。
しかし歴史を顧みるに、やはり国力(軍事・経済力)を持たなければ、主権も何も主張できないことは明らか。
日本は、今こそ歴史に学ぶべきだと痛感します。