Diary 17
今朝はちょっとはいいけど、やはり寒い。
でもヒートテックと言う長袖に、黒の同系統色にTシャツを着て、暖ったかーいジャンパーに、暖ったかーいズボン、トレパンに暖ったかーい靴下と、すべり止めつき靴下の完全防寒着だ。
これは今、妻が全て着替えさせてくれた今の防寒着だ。
寒い冬をこうして乗り切るわけだが、もし妻も面倒見る人もいなければ、生きてすらいないだろう。
だから冬の北国の様子も、つらくて見られないし、平昌五輪も見ないのだ。
脳出血後遺症からの脱出は、症状にもよるだろうが、普通の人が考えるよりつらい。
痛みは、しびれを伴い24時間続くので、その痛みが強い時は、睡眠剤なんて全く効かない。
だから、特に半身不随の中でも症状も強く、更にしゃべれない、となると最悪のつらさだと思う。
たまにそう言う人と一緒の時は、頑張れとさえ言えない場合もあるのだ。
僕は幸せだと思う。
痛かろうが、兎に角、前に進む目標を目ざせるだけで幸せなんだ。
目標を持てない人生が、一番つらい。
昨日は、平良鉄彦から手紙を貰った。
嬉しくて読み返し、ついでに以前の手紙も読み返した。
やはり手紙は熟知しているようでも、かなり忘れている部分がある。
彼の4年程前の手術が大変だったことは覚えているが、3日間も意識不明だったことは忘れていた。
その半年前に、彼は大浜病院へ御見舞いに来ていて、僕は5日間の意識不明の脳脳出血後遺症のリハビリの最中で、彼が来たことは覚えているが、それ以外の記憶は一切ない。
彼は、その数ヶ月後に3日間の意識不明だったと改めて知り、再び驚いたのだ。
意識不明の1日ぐらいは何となく分かるし、そうか意識不明だったかで済ますかも知れないが、3日となると、ちょっとそうはいかないような気がする。
僕も5日間ぐらいの意識不明は、死からの生還だった感がするのだ。
そして3ヶ月半ぐらいの記憶は断片的で、はっきりせず、トイレはどうしていたのか、食事はどうしていたのか覚えてないし、6ヶ月と4日後に宮古島に帰ってきた時も、ほとんどが車椅子だったし、又、筋肉はなくガリガリだったし、その状態がほぼ鉄彦も似ているのだ。
だから益々思う。
鉄彦頑張れ、俺も頑張るよ。
今日は、鉄彦に手紙の返事を書いた嬉しい日でした。