それにしても米国において

一部有権者がなおトランプ氏を

献身的に支持する風景に

私はしばし考え込んでしまうわけです。

 

女性に対する蔑視発言だけでなく

トランプ氏の政治姿勢や意見が

『社会の安定』という点から見ると

非常な危険性を含むものであることは

もはや全世界が認識するところで

あるとは思うのですが、そういう候補者を

彼の蔑視の対象である女性や

彼が実際に権力を掌握したら高確率で

痛い目を見るであろう立場の人々が

熱をこめて賞賛する図、というのは何なのか。

 

トランプ氏をヒトラーになぞらえる報道

よく目にするところではありますが、

そうした記事を見て

トランプ支持派は何を考えるのか。

 

「馬鹿な、ドナルドはヒトラーとは違う、

これは誹謗中傷だ、許せない」なのか

「そうだ、ドナルドはヒトラーだ、

米国は今ヒトラーを必要としている」なのか。

 

先の大戦の責任というか罪を

アドルフ・ヒトラーという

たった一人の人間に押し付けることは

ある意味非常に危険だと

私は足りない頭で思っているのですが

(ヒトラーだけが悪い!で思考を停止してしまうと

その他の人々の責任が追及されない。

当時の社会・世論状況を顧みず

ヒトラーのみを空前絶後の超人的悪人として

定義してしまうと、後日同じような状況が

社会に出現した時に『でも現代にヒトラーは

存在しないから』と人々が油断し

世界は二の轍を踏むことになるのでは)、

しかしヒトラーとその時代が

世界にもたらした災厄、

あの時に人類が経験した絶望的混乱を

現代社会で義務教育を受けた人間は

ある程度学校で学んできているはず。

 

ヒトラーの人心掌握術、扇動力、

聴衆を沸かせるためにあえて

『過激に演説』する手法を

我々は批判的に検証してきたはず。

 

社会の不満の原因を単純化・可視化し

「諸悪の根源はここにある、故に

この害を叩き潰すべき」という論法には

爽快感以上に危険性が伴うことを

21世紀の多くの一般市民は

常識として知っているはず、なのに

何故トランプ支持派はトランプ氏の

あの単純明快過ぎる論旨、

痛快性を狙いすぎた過激な主張を

拍手と笑顔で迎えることができるのか。

 

これはもう『教育とは何なのか』

『我々は歴史から何を学ぶのか』

という話なのではないか。

 

しかし今回はトランプ氏が

米大統領選挙という大舞台で

これ以上ないほどにわかりやすく

こうした態度を示していることから

逆に我々もこうして

おおいに危惧を抱けるわけですが

『明快な論旨で問題点を大胆に指摘、

大衆受けする解決策を提示する』というのは

政治家に求められる手腕というか

資質のひとつであることも真実でありまして。

 

その論旨が単純明快を通り越して

荒唐無稽になってはいないか、

問題点が真に公正に指摘されているか、

解決策に本当に実効性があるか、

そうしたことを見極めることのできる

知力と勇気を我々有権者は持たなくてはならない。

 

大変な時代になったものでございます。

 

が、一部特権層が指導者を選んでいた日々や

武力と資金を持った人間が

力づくで独裁制を敷けた時代に

今から戻りたいかと訊ねられたら答えはノー。

 

人間、生きていく限り勉強ですね。

 

しかし報道に接するたびに

色々な意味でこちらを陰鬱な気分にさせてくれる

米国大統領選挙の動向ですが

例の第2回テレビ討論

トランプ氏とヒラリー氏がお互いを罵りあった

90分の末に最後に会場から出たのが

お互いのいいところは何ですか

という質問であった、という点に私は

大国アメリカの底力を感じたのです。

 

もしも自分が米国有権者として

あの討論会を会場で見学していて、

そして最後の質問を

投じる機会を与えられたとしたら。

 

私はどう逆立ちしても

ここまで素敵な質問は

考え付けなかったと思うんです・・・!

 

最後の最後にこの質問をぶつけてきた、

これはもちろんテレビ討論会を演出していた人の

センスが良かったとも説明できるわけですが、

しかしこの不毛な選挙戦の最中に

「そうだ、僕はこの質問を訊ねたい」と

思いつけたこの質問者の存在に

私は心救われた思いさえするのでございます。

 

私がもしも『最終質問者』に選ばれたら

「この討論会を見た諸外国の人々が

どのような印象を

合衆国と合衆国における選挙に対し

持つであろうとお二人はお考えですか」

とか質問しただろうと思うのです。

 

質問の裏に含まれた意味はもちろん

「お前ら、恥ずかしくないのか」です。

 

「お互いのいいところは何ですか」という

質問の裏に隠された意味も実は

「お前ら、恥ずかしくないのか」なのだと思います。

 

しかしそこには前向きで建設的な輝きがある。

未来を信じる力強い姿勢、難局においてこそ

楽観的・肯定的であろうとする胆力が感じられる。

 

私の質問にはそれがない。

病んだユーモアはあっても

根底はねじくれている、そうまるで

質問者のを体現するかのように。

 

あの質問者のおかげで

トランプ氏とヒラリー氏はあの日

面目を丸つぶれにしないで済んだ、と

私は考えているのでございます。

 

私はこの質問者を見習いたい。

 

攻撃的で殺伐とした不毛な空気を

一瞬でなごませ、自分たちが本来

何を目指すべきであったかを

苦笑とともに人々に思い出させる、

そんな力を持った言葉をいざという時に

さらっと口にできる人間になりたい。

 

やはり人間、死ぬまで勉強なのです。

 

 

あー、でも私、もう勉強したくないのよね

 

 

何かしら、秋のせいかしら、

根気の要る作業に取り組みたくないの

 

たとえばほら、落ち葉掃きとか

落ち葉集めとか落ち葉掃除とか・・・?

 

色々追いつめられている私に

ほら、冬が来るまでの辛抱ですよ!

の1クリックを・・・と

お願いしようと思ったのですが

でも冬は冬で悲しいのよ!寒さが!

 

逃げ場のない私に

あたたかい愛に満ちた1クリックを

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