木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

徳川宗春の墓と金網

2014年07月21日 | 江戸の人物
八代将軍・徳川吉宗と張り合った尾張徳川の徳川宗春は、吉宗との政争に敗れ、謹慎処分となった。
元文四年(1739年)のことである。ときに、宗春三十歳。
六十九歳で没するまで、宗春は政治と離れ、ひっそりと暮らす。
この辺りは最後の将軍であった徳川慶喜と似ているが、宗春の場合は外出も許されなかったから、籠の中の鳥として寂しく生き延びた。
政敵・吉宗は宝暦元年(1751年)死去。
吉宗の死去三年後の宝暦四年には、宗春は三の丸から下屋敷に移ることを許される。
その後、幾分か処置は緩和され、特別の場合の外出も許可された。
明和元年(1764年)、死去。
葬儀は尾張徳川の菩提寺である建中寺にて行われ、同寺に墓も建立された。
死後も謹慎処分を解かれていない宗春は、死してもなお墓に金網が被されたと言う。

ここで問題となるのは、墓の金網だ。
私も何の問題も持たずに、事実だと信じ込んでいたが、どうも事実というにはあやふやだ。
まず、宗春の墓に金網が被さっていたというのは、どこからの引用か判明していない。
確かな著書に事実が記されている訳ではない。

謹慎処分から三十年後の死去の際には、政敵・吉宗もこの世にいない。
誰が金網を被せるように指示したのだろうか。
将軍の座には、家重を経て、家治が就任している。
家治は吉宗の孫であり、吉宗の英才教育を受けている。
老中主座には、吉宗の頃から幕閣にいる松平武元。
この二人ならあり得る指示と思わせるが、家治と武元は田沼意次を重用している。
政策的には倹約から宗春が提唱した産業振興政策に移行しつつあった。
自分たちの政策を棚に置いて、過去の亡霊となった宗春に今さら構うのも、藪蛇になる恐れがある。
また、御三家筆頭にありながら、将軍を生み出していない尾張家を下手に刺激するのもどうかとの思惑もあったはずだ。

もともと金網とは罪人にの墓に被せるものだ。
たとえば、小塚原の回向院の例を見てみると、ねずみ小僧だとか、高橋お伝などの墓に金網が掛けられている。
こういった罪人と並んで、幕府が御三家筆頭の尾張元藩主の墓に金網を掛けるとは到底考え難い。

松平定信は老中主座になると、かつての政敵・田沼意次の墓を潰し、相良城を破壊した。
これは、相手との間にあきらかに力の差があるからであって、尾張家と将軍家の間にはそれほどの力差はない。

考えてみればみるほど、宗春の墓に金網説は怪しい。
清水の次郎長=大男説と同じ類なのかも知れない。

参考資料:徳川宗春(風媒社)北川宥智
     規制緩和に挑んだ「名君」(小学館)大石学



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