豚とレタスのピリ辛みそ鍋 ~食事はだまって食べたほうがウマイのである

豚肉とレタスのピリ辛みそ鍋 豚肉

きのうは、豚とレタスのピリ辛みそ鍋。

豚とレタスのピリ辛みそ鍋

食事はだまって食べたほうが、ウマイのである。

 

 

きのうも京都は寒かった。ここ数日、寒さが少しゆるんでいたから、このまま年を越せるかとおもったら、そうは問屋がおろさなかった。

寒さが苦手なことはもう100万回くらい書いているが、ぼくはできれば、布団のなかに住みたい。

一生ぬくぬくと暮らしたいが、そういうわけにもいかないのは、人生、ツライところだ。

 

きのうは豚ばらスライス肉が買ってあった。

豚とレタスのピリ辛みそ鍋

「鍋」なのは決まっているわけで、豚肉にあわせる相手は「レタス」にした。

レタスは、サッと火を通して食べるとうまい。サッパリ感が高いから、こってりとした豚肉とは誠にいいコンビである。

 

味付は、「ピリ辛みそ」。豚肉がみそ味にあうのはもちろん、レタスもまた、コックリとしたみそ味はとてもいい。

はじめは昆布だしで煮て、ピリ辛のみそダレをつけて食べるようにしようかとおもった。

でも「あたたまる」ことを考えるのなら、汁をすすりながら食べるほうがいいだろう。味は、汁につけることにした。

 

レタスだから、煮時間は「ほんとにサッと」 にしないといけない。なので、少しずつ煮ながら食べられる「小鍋だて」にする。

ピリ辛の味付は、豆板醤。ショウガもたっぷりとおろし込めば、さらにコクが出て、あたたかくもなるだろう。

 

だしは、昆布と削りぶしでとる。

豚とレタスのピリ辛みそ鍋

4カップの水で、まず10センチほどの昆布を煮立てないようにしながら10分~20分、昆布の風味が「ぷん」と立ってくるまで煮出す。

そのあと鍋にザルをすえ、一つかみの削りぶしを、やはり煮立てないようにしながら5分~10分煮出す。

 

とり出してよくしぼった削りぶし、それにだし昆布は、べつに無理せず捨ててしまってもかまわないし、冷蔵庫に保存しておき、じゃこ炒めなどにしてもいい。

でもぼくは、できるかぎりその場で食べてしまうようにしている。

あとに残すと処理が面倒くさくなるし、ポン酢に一味でもかけて食べると、料理しながらのむ酒のいい肴になるのである。

 

3カップくらいのだしが出来ることになるのだが、ここに、

  • 酒 大さじ3
  • みりん 大さじ1
  • すりおろしたショウガ 2センチ大くらい
  • 豆板醤 小さじ1

と、みそを大さじ3~4だとおもうけれども、味をみながら塩気がちょうどよくなるまで溶きいれる。

豚とレタスのピリ辛みそ鍋

豆板醤は、「李錦記」のだとニンニクが入っているから、ニンニクをいれない向きには「YOUKI」のがおすすめだ。

 

いれる具は、豚肉とレタス、しめじに油あげ。

豚とレタスのピリ辛みそ鍋

レタスは、豚肉200グラムにたいし、ほぼ「一玉」いれてしまってもいいくらいだ。

 

あとは汁と材料をテーブルへ持ちだして、小鍋で少しずつ煮ながら食べる。

豚とレタスのピリ辛みそ鍋

酒は、熱燗。

 

小鍋に汁をそそぎ、まず油あげと豚肉を煮る。

豚とレタスのピリ辛みそ鍋

豚肉の色が変わったら、すかさずしめじ、それにどっさりのレタスをいれ、たっぷりの青ねぎもくわえてサッと煮る。

 

レタスがしんなりとしたら火を落とし、器によそって食べる。

豚とレタスのピリ辛みそ鍋

これが、連日で申し訳ないのだが、「死ぬか」とおもうほど、うまかった。

 

味は、一言でいうと、「みそラーメン」。豚肉のコックリとしただしが加わるから、そうなるのだ。

そこに、ムチムチの豚肉、さっぱりとしたレタス、味を吸った油あげ、それに香りのしめじ、、、

あたたまることこの上なく、酒はもちろん、ご飯にもバッチリあう。

 

食事のまえは冷えていた体が、うまいものを食べ、酒をのんで、ポカポカになる。

そうすると、

「ああ、幸せだなあ、、、」

しみじみとおもうわけである。

 

ところでこの「食事の幸せ感」、だまって食べるほうが高い。

とくに日本の食事の場合には、しゃべってしまうと、うまく味わえなくなってしまうのだ。

 

それをはじめて感じたのは、以前よく行っていたラーメン屋で、ラーメンを食べたとき。

ニンニクと脂が少ない、日本的なラーメンだった(いまはニンニクも脂も増量された)からだろう、人としゃべりながら食べてしまうと、「しょうゆ臭い」としか感じられない。

とこがそれを、だまってじっくり味わうと、たいへんな奥行きの深さが感じられてくるのである。

そのとき、

「日本人は、味を左脳で感じるのではないか」

と、ぼくはおもった。

 

左脳はものを「論理的」に、そして右脳は「感覚的」に、とらえるといわれている。だから論理である「言語」は、中枢が左脳にあるし、おなじ音でも「音楽」は、右脳でとらえるのだそうだ。

しゃべるとだまるとで味が変わるということは、味をかんじる領域が、言語とおなじ場所にあることを意味するだろう。

言語は、一度に一人分しかとらえることができないからだ。

 

それにたいし、西洋人は、「食事は気の利いた会話をしながらするのがマナー」と考えるところがあるわけだ。

このことは、「話をしても食事の味が変わらない」ことを意味するから、おそらく、西洋人は味を右脳でとらえるのではあるまいか。

 

おなじことでも、日本人と西洋人で、脳のべつの場所でとらえることは、ほかにもきく。

「虫の声」を、日本人は「声」と呼ぶように「風流」ととらえるのにたいし、西洋人は「雑音」としか感じられないとのこと、日本人は虫の声を左脳、西洋人は右脳でとらえるといわれている。

 

きのうとおととい、ぼくは連日、「死ぬかとおもうほど」食事がうまく、いつも以上の幸せを感じた。

じつはきのう、そしておととい、食事中にパソコンをひらかなかったのだ。

ツイッターをみながら小鍋をつくるのが面倒だからだったのだが、おかげで一人でだまって、食事をすることになった。

食事がいつも以上にうまかったのは、そのせいで、いつも以上にじっくり味わうことができたからではなかったか。

 

日本では、昔なら、

「食事中はテレビは消せ」
「食事はだまって食べろ」

といわれたものだ。

これは、ニンニクも脂もつかわない、繊細な味の日本の食事を、きちんと味わうための智恵だったのではないだろうか。

ところがいまは、西洋流に影響され、食事は「テレビをみながら」、または「会話しながら」食べるのがふつうだろう。

 

もちろん好きな女や愛する家族と、話しながら食事をするのは、いいものだ。しかしそのよさは、「食事自体のよろこび」とは、別ものだ。

この「食事スタイルの変化」が、日本の食文化そのものを変質させている程度は、「決して小さくない」とぼくはおもうところである。

 

その点、一人の食事はいい。

誰に気兼ねすることなく、存分にだまって、味わうことができるのだ。

 

「ほんとは彼女と食べたいんでしょ。」

チェブ夫

そうなんだよな。

 

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豚肉とレタスのみそ炒めがうま過ぎて、またつい家で飲み過ぎ過ぎたのである。
 

 
 

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