六士先生



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「その場で勝てば良い」ではない。
最終的な勝利とは、道を正し、斜めのものを真っ直ぐにしていくことです。
だから我が国では、武のことを古代には「たけふ」と言いました。
たけは「竹」でもあります。
真っ直ぐで、しかも節があって折れない。


20171014 竹林
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10月15日(日)13:30 古事記に学ぶ25の経営学
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11月 3日(金・文化の日)第2回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)
11月 5日(日)第45回 倭塾 公開講座
11月25日(土)第20回 百人一首塾
 *****

台湾の若手親日家の李久惟先生のご著書『日本人に隠された真実の台湾史』から、この士林にまつわるお話をひとつご紹介してみようと思います。
感動です。

*****

『日本人に隠された真実の台湾史』
李久惟著 P201〜205より

明治28(1895)年に、日本は台湾を領有するのですが、そのとき、この芝山巌にある廟の「恵済宮」の敷地内に、学校を開き、付近の子どもたちに日本語を教えました。
派遣された教師は、6人の日本人でした。

楫取道明(かとりみちあき)先生
(山口県、38歳、吉田松陰の妹・寿と初代群馬県令楫取素彦の次男)
関口長太郎(せきぐちちょうたろう)先生
(愛知県、37歳、愛知西尾小学校校長)
中島長吉(群馬県、25歳)
桂金太郎(東京都、27歳、東京府士族)
井原順之助(山口県、23歳)
平井数馬(熊本県、17歳)

彼等はのちに「六士先生」と呼ばれ、教育の鑑(かがみ)とされました。
台湾に日本精神を教える最初の6人の先生が彼らだったのです。





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その当時、初代台湾総督に就任した樺山資紀(かばやますけのり)に「(台湾の統治政策の中で)教育こそ優先すべき」と教育の必要性を訴え、日本全国から集めた人材を連れて初めて台湾に渡ったのが、台湾の初代学務部張(教育のトップ)の伊沢修二という人物でした。

彼は長野の伊那の人ですが、東京師範学校(現・筑波大学)や東京音楽学校(東京芸術大学の前身)などの様々な大学の学長を歴任し、貴族院の議員を務めたり、ハーバードに留学したりとかしている人で、音楽家でもあります。

日本人として最初に電話を使い、「もしもし」という言葉を残したのが、彼と金子堅太郎という人です。
ベル研究所から依頼されてアジアとアメリカの長距離国際電話をかけた際、「申します、申します」と言ったのが、「もしもし」の語源になったという、その人です。
また小学校、中学校で歌われる、特に戦前、明治時代につくられた歌のほとんどに関係しています。

日本精神とかもそうですけど、「教育勅語」を台湾に広める役割も果たしています。
その関係で、六士先生のお墓が台湾にあるのです。

お墓の近くに記念碑があって、そこにその当時の首相の伊藤博文と台湾の初代学務部長の伊沢修二との関係などが書かれています。
その記念碑は、何回も政権によって倒されては、地元の人によってまた修復されるという歴史があるのです。
墓のほうも長い間ずっと守られ、いまだに墓守たちがいて、いつも墓地をきれいにしています。

前述のようにこの6人の先生が最初に「教育勅語」と日本精神というか、日本語を含めた日本の文化とかを教えるわけですが、彼らは日本から特別に選ばれた優れた人物ばかりです。
場所は寺や廟を借りて、そこを日本の寺子屋のようにして教えるのです。

ところが日本が台湾を領有した直後の混乱期にあって、台湾には山賊、海賊の集団が各地にまだたくさんいました。
台北の治安が悪化し、匪賊による暴動が頻発したため、地元の民は教師たちに避難を勧めたのですが、彼らは
「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかったのです。

翌年の1896年に、案の定、日本統治に反対する匪賊の一団が学堂を襲撃し、彼らは犠牲となり殺されてしまうのです。
台湾に来て、それほど経っていない頃で、正月元旦に参拝したあとに、帰る途中で襲われてしまったのです。
6名の教員たちは抵抗することなく、匪賊に対して最後まで教育の大切さを説いたと言われています。

その事件に関して、地元に前からあるものと、あとの政府がそこに建てた記念碑に書かれている内容が違うのです。
われわれにとって犯人たちは匪賊で間違いないのです。
しかし別の見方では、義民と書くわけです。
政権によって、抗日の義民とされたのです。

でも、おかしな事実があります。
実は金品を取られているのです。

戦後、大陸から来た政権は、あらゆる材料を反日のために使おうとします。
しかし、なぜ地元の人は悲しみ、そしてその後今日に至るまで必至に六士先生を守ろうとしているのかということですね。
墓守や廟の人たちも必死に守っています。

戦後、台湾に進駐してきた軍事政権によって、近くの神社や墓石、記念碑はたびたび破壊されたのです。
しかし住民たちによってそのたびに修復されました。
六士先生の墓石も、彼らを慕う地元の人々によって再建されました。
その他の記念碑も地元の文化財として保存されることになったのです。

それで地元の反発を招くと思い、存続させる代わりに、逆手にとって反日教育の教材にしようとして説明をつけたのです。だから二つの力が働いていて、今でもせめぎ合いをしているわけです。
それが六士先生にまつわる台湾の状況です。

芝山巌学堂は、その後は士林公学校となり、場所は変遷を経て、現在の士林國民小学校に受け継がれています。
彼らのおかげで日本精神という言葉がそのあと台湾に根付くのです。
その原点となったのが六士先生です。

6人も殺されたので、あとから来る人たちは普通は二の足を踏むじゃないですか、自分たちも殺されるかもしれないと。
でも、あとからあとから、殺されても教えに行かなければいけないという使命、天命を感じた人たちがやってきて、台湾の教育が開かれているのです。

いまだに六士先生の廟は、ひとつの参拝ルートとして、たくさんの人たちが訪れています。

******

非道に対して非道をもって挑めば、結果としては暴力的殺し合いにしかなりません。
一方、正道をもって臨んでも、犠牲が出ることがあります。

殺された六士先生の、おひとりおひとりには、それぞれご家族もあります。
そして先生方は、この時代の人ですから武芸をやっています。
最低でも剣道、柔道を身に着けていたであろうと思います。
つまり殺しに来た暴徒(匪賊)たちに、刃向かい抵抗して斬り死にしようとすれば、それはできたであろうし、生き残れた可能性も高いのです。
あるいは活路を開いてその場を逃れることもできたかもしれません。

けれど6人の先生は、それをしませんでした。
どこまでも話し合い、匪賊達を調伏しようとしました。
なぜでしょう。
暴力渦巻く当時の台湾にあって、暴力より教育を広げたかったからです。

暴徒たちを力でねじふせても、また次の暴徒がやってきます。
いまの反日サヨクや在日と同じです。
力でねじ伏せても、また次のアホがやってくる。

そうではなく、人にはもっと大切なことがあるということを教化していく。
そのために台湾に渡ったのです。
そして渡ると決めたときに、すでに命は捨てていたのです。
けれど、仮に台湾の地で死ぬことがあったとしても、魂はその地に残り、台湾の人々の精神となって生き続ける。
だから、6人も死を選択したのです。

これが肉体は魂の乗り物という日本古来の武人の考え方です。
「その場で勝てば良い」ではない。
最終的な勝利とは、道を正し、斜めのものを真っ直ぐにしていくことです。
だから我が国では、武のことを古代には「たけふ」と言いました。
たけは「竹」でもあります。
真っ直ぐで、しかも節があって折れない。

その結果は、どうでしょう。
国家の力で歴史を捏造しようとする政権が、台湾で70年にわたって日本統治を消し去ろうと、六士先生の碑を撤去し、六氏先生とまで書き換えても、それでも台湾の民衆は六士先生の名前を「士林」として残しています。
そして士林市場は、世界的に有名な観光スポットです。
いまさら市場の名前を変えられない。

こうして正道を貫こうとしてきたのが日本人です。
そうやって我慢して我慢して、どうにもならなくなったとき、はじめて日本は兵をあげています。
戦後の日本では、すっかり洗脳工作にやられてしまって、そうやってこらえにこらえ、ガマンにガマンを重ねながら、最後に勇気をもって戦った私達の父祖を、いたずらに悪くいう風潮があります。
まことに残念なことに思います。

台湾では、現政権がこの「六士廟」を「六氏廟」と書き換えています。
士族の「士」、武士の「士」を、故意に「氏」に書き換えることで、歴史を葬り去ろうとしているわけです。
けれど、台湾の人たちは、市場に「士林」と名づけました。
そして「士林市場」は、いまや世界的な台湾の観光スポットとなっています。
そうやってしっかりと名前を残そうとしていてくれているのです。

日本人は、いったいいつまで、アホのままでいるのでしょうか。

今日のお話は、台湾人の李久惟先生のご著書からの抜粋です。
この『日本人に隠された真実の台湾史』には、こうした台湾と日本の関わりを示す様々なエピソードが紹介されています。

※この記事は2015年9月の記事のリニューアルです。

お読みいただき、ありがとうございました。

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20160810 目からウロコの日本の歴史


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コメント

くすのきのこ

No title
こんにちは。竹のお話。
竹は大きくしなり曲がっても、折れもせず元に戻ります。節と節の間の中身
が空(から)だからでしょう。空(くう)。我欲のない空を包み、節で強度
を付け、上空へと伸びていく。・・迷いがないんですねww
通常の木々とは異なり春夏に黄葉し、季節が厳しくなる秋冬に新しい葉を茂
らせる。・・厳しい時に青く茂るw
ただし切られると、切り口近くからの再生はない。ですが竹は地下茎により
広がり繁殖。春に萌芽する筍は秋には大きく育っている。・・見えない地下
で広がり続けるw
開花は60~120年程の周期で一斉に花開き、一斉に枯れる。新しい竹林
の形成には十数年以上かかる。・・哀しいですが、それでもその種で、より
環境に適した竹林が現れるw・・竹林・・士林とは・・いい名づけですね。

最初の酒は竹の切り口に溜まった水に、小鳥が穀物などを落してしまったも
のが、いつの間にか発酵してできたのだという説がありますw甘い発酵臭に
思わず口をつけて酒を味わったのだと。竹には抗菌作用もありますしw
竹(イネ科イネ目タケ亜科)は人々と関わり、いろいろな事を教えてくれる
ようです。

つつじ台北

毎年お参りに行かせていただいております。
また六士先生のお話を拝見できとてもうれしく思っております。
私はおかげ様で台湾と関係するお仕事を20年近くさせてもらっております。今の私の人生も人情味のある台湾人ː本省人の方々のおかげだと思っております。
私は2014年に初めて六士先生の事を知り、それ以後毎年一度お参りに行かせていただいております。

お時間のある方はぜひ行かれてみてください。
以下は行き方の例です。よかったら参考になさってください。
1、台北MRTの赤の淡水線の【R16ː士林】駅で下車。
2、中正路へ向かう出口へ進み、そのまま中正路へ。
3、中正路(の横断歩道)を渡らないで、中正路を右に向かう206番のバスに乗車。(ドラッグストアのWatsonsの前のバス停です)[お墓にかける御水や御花等を持参されたい方はバスに乗車する前に購入したほうがいいです。]
4、御花を士林駅で買う場合は中正路を左へ5分歩き、中正路と華栄街の交差点まで来たら右折(:横断歩道を渡り)華栄街(『以利泡泡氷』の隣の路地)へ進んでください。がんばって奥までずっと進むと右側に花屋さんがあります。「士林區貴富街19-2號」[2017年8月は黄菊6本を二束で12本が240元でした]
5、御花を買った方は、中正路まで戻り、横断歩道を渡って[中国信託銀行]側の士林国中のバス停から206番へ乗車。
6、MRT士林駅バス停からだと6つ目の【恵済宮】バス停で下車し、少し道をバックしたら入口の芝山公園の大階段に到着します。5つ目の【芝山公園】バス停より6つ目の【恵済宮】バス停下車の方が楽です。
7、その芝山公園の大階段を上り、またさらに奥に進み、雨農閲覧室の建物には入らず、その脇の左の徒歩ハイキングコースを歩いてみてください。
8、そのハイキングコース途中に六士先生のお墓がさびしくあります。(お花をあげたりお掃除をしたい方は横にある道教?のお宮の左側から六氏先生のお墓の方へ入りこめる所があるので注意して入って簡単なお掃除とお参りをすることが可能です。)
9、夏は蚊が多いので長袖を。大階段で汗を書きますが素晴らしい階段です。

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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