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永遠の魂が、今生を選んでこの世に生を受けているのです。
まして男に生まれた以上、生涯に何かひとつ、成し遂げていきたいものだと思います。
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第52回 倭塾 公開講座衆議院議員や豊橋市長を歴任した大口喜六という明治時代の政治家が書き残した記録に、小原竹五郎(おはらたけごろう)についての記述があります。
8年前に一度ご紹介していますが、あらためてまたご紹介してみようと思います。
短文です。
*
明治12年の夏のことです。
私の郷里の豊橋でコレラが流行しました。
私の住所である船町にも数名の患者が出ました。
しかし伝染力が強いので、誰も遺体の運搬をしてくれません。
私の父はこの当時町の用係を勤めていたのですが、その頃の用係は、後の戸長に相当するもので、町内のあらゆる世話を行っていました。
さて、その頃町に小原竹五郎という若者がいました。
竹五郎は、いつも酒を飲んでは暴れまくる乱暴者でした。
町の人たちは、彼のことを「オボ竹」と呼んでたいそう嫌っていました。
その竹五郎が、この非常事態に、父の勧誘に応じて決然と立ちあがり、進んで遺体の運搬夫の役を買って出てくれました。
彼の動作は勇敢で、見るものを驚嘆させました。
しかし竹五郎は、自分もコレラに感染してしまいました。
初代渥美郡長だった中村道太は、当時まだ豊橋に住んでいたのだけれど、深く竹五郎の侠気に感じて、自ら竹五郎を病床に見舞いました。
私の父もしばしば石塚の庚申堂の一隅にあった竹五郎の床を見舞ったのですが、その甲斐なく、竹五郎はついに還らぬ人となってしまいました。
竹五郎の死後、明治15(1898)年6月20日、竹五郎の墓が建てられました。
このとき中村さんは、自ら筆を揮って墓標に
「奇特者小原竹五郎之墓」
と書いてくれました。
それは幅40cm、高さ1m50cmくらいある石柱で、側面に碑文が刻まれ、今なお龍拈寺の墓地にあります。
*
男という生き物はどうしようもないアホな生き物で、とりわけ元気が良すぎると、ときとして暴れ者となり、狼藉を働いて鼻つまみ者になったりすることがあるものです。
そんなことがないように、しっかり生きようと思っていても、そもそも世の中は矛盾に満ちているものだけに、なまじ根が真面目だったりすると、真っ直ぐに生きようとするあまり、結果として周囲と衝突してしまい、そのことがストレスになって、暴れてしまうと、今度は、暴れ者とそしられる。
夏目漱石は、そんなことから小説『草枕』の冒頭に、
「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。
情(じょう)に棹(さお)させば流される。
意地を通(とお)せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。」
と書きました。
けれど、そんな暴れ者でも、いざというときには、自分にできる精一杯のまっすぐを示す。
そのことに命を賭ける。
そういう男を、かつての日本人は深く愛しました。
清水次郎長も、戊辰戦争で清水港に幕軍の遺体が多数放置されているのを見て、
「人は死んだら仏様だ。
仏様に官軍も幕軍もねえ」
と、一家を総動員して、多数あった御遺体をきれいに片付けました。
昔の人は、そういう男を「侠客(きょうかく)」と呼びました。
一般に「侠客」は、強気をくじき弱気を助ける任侠者」と言われますが、「侠」という字は、にんべんに「夾」と書きます。
「夾」という字は、両脇に人を抱えて立っている姿の象形で、手や腕で人をはさみこむところから、金へんなら「鋏(はさみ)」だし、陸にはさまれた海なら「海峡」です。
要するに人と人との間にはさまれながら、狭い世間で筋を通して生きる人が、「侠」で、屋外で野良仕事をするのではなくて、屋根の下で暮らしているから「客」となって、「侠客」と呼ばれたわけです。
人は本来、農業など屋外で働いて生きることが本筋で、そこから外れて人と人との間だけで金のやり取りをして生きている人達だから「侠」なのであって、それだけに筋や道理を重んじなければ、人でさえなくなってしまう。
人でなければ人非人で、ケダモノと同じになってしまうから、たとえ様々な行きがかりから、どんなにヤクザとなろうとも、筋だけは通して生きよう。
そうしなければ、人以下になってしまう、というのが、日本人の侠客の一般的思考だったわけです。
そしてこのような思考を可能にしたのが、「人には魂がある」という古代からの日本の思想です。
身はどんなにやつれても、この魂だけは汚さない。
それが日本人の生き方であったし、おそらくいまも変わらぬ日本人のDNAの本質です。
そして永遠の魂が、今生を選んでこの世に生を受けているのです。
まして男に生まれた以上、生涯に何かひとつ、成し遂げていきたいものだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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コメント
くすのきのこ
・・親に反抗したり・泣いたり・乱暴したり・恋する人を救ったり・
植林したり・娘婿を試したり・・ww豪快な御方と言えばスサノオノ
ミコトでしょう。建速須佐乃男命・須佐乃袁尊(古事記)あるいは
素戔男尊・素戔嗚尊(日本書紀)須賀の地で詠んだ歌が・・
やくもたつ いずもやえがき 八雲立つ 出雲八重垣
つまごみに やえがきつくる 妻籠みに 八重垣造る
そのやえがきを その八重垣を
通釈は・・幾重にも雲が立ち上り出雲を八重垣のように囲む。妻と
共にこもるのにも八重垣を造ろう。沢山の垣を造って囲もう。
壮大な感じですね。しかし対立する勢力があったのでしょうか?城壁
都市を造るという感じがしますね。
日本列島は大むか~しから多民族・多文化・多神教の共存共栄に努力
してきたでしょうが、時々、倭国大乱や白村江の戦いの後の混乱や
戦国時代などに突入したわけでしょうね。
では・・自由連想です。この歌の原文は古事記と日本書紀で違って
います。ソコが面白いw文字を選んでいるようですよ。
夜とは日没後・・多分・・大王が没してしまい大きな支配王朝が混
乱していた時期かと。スサノオさんとの関連は?ですw
上と同じ歌です。
古事記
夜・久・毛・多・都 王が没し 長い間に生じた多くの街々
伊・豆・毛・ この(中での)小さなめばえは
夜・幣・賀・岐 王没後も神への奉納を祝う 分流の人々
都・麻・碁・微・爾 街々でぼんやりと陣取り戦は衰え~この様に
夜・幣・賀・岐 王没後 神への奉納を祝う 分流の人々は
都・久・流 街々に久しく広め伝える
曾・能・ 幾重にも重なる働き(かつても良く機能した)
夜・幣・賀・岐・袁 王没後も神への奉納を祝う 分流の人々の
身に負うものは長くゆったりしている
日本書紀
夜・句・茂・多・菟 王が没し その句切りで盛んに生い育った
多くの 自ら立てない人々(根無しかずら)
伊・弩・毛 この石弓にめばえた(武器をとった)
夜・覇・餓・岐 王没後の覇権に餓えた 分流の人々
菟・磨・語・味・爾 自ら立てない人々は磨き語り仲間に入れると
面白い味になる~この様に
夜・覇・餓・枳 王没後の覇権に餓えた枳(からたち長江上流
域が原産の唐橘の略・長江上流域から来た難 民?)も
都・倶・盧 街で共に飯びつを使う(一緒に飯を食う)
贈・廼・ やるものとは すなわち
夜・覇・餓・岐・廻 王没後の覇権に餓えた 分流の人々の向きを
かえる事
これらの歌は、お日様の様な王が没したその混乱の中にあって、諸地
方が分断されてしまうが、神を忘れない努力、荒れた人々と語り合う
努力を、古代のどこかの時期に人々が長い時間をかけてやったのだと
・・こう伝えているのかもしれません。もっとも・・多分国の形は変
わってしまった・・だから明らかに書きつける事が出来ずに、音で選
んだという言訳で、文字に思いを託したのではないかな?
ちなみに・・
古事記・建速須佐之男命・はじめるのが速くすべからく助ける御仁
日本書紀・素戔嗚尊・もとは損害を与え鳴いてた御方w
天武天皇の歌もそうですが・・秘めて語る事もあると。。
2018/04/08 URL 編集
heguri
今日はこちらからシェアさせていただきます。
2018/04/04 URL 編集