武市瑞山(半平太)先生の生家、お墓にいってきました。

実はこの写真は今から7年前(平成20年)に訪問したときの写真なのですが、アップしていなかったのを、前回のブログ記事とリンクさせようとして気づき、今さらながら慌ててアップした次第。。。

武市瑞山(半平太)道場跡にいってきた
http://ameblo.jp/fist-history/entry-12065326036.html

上記写真は旧宅の母屋となりますが、現在はご自宅は武市家とは関係がない方々がお住まいになられており、普通の民家となっています。

そのため、家を見るには高知市に連絡を入れて許可を得る必要があります。

武市家は何十年も前にこの家を売り、別の所に住んでいます。

自宅自体は保存されていますが、築年数が長いため、幾度となく改築されており、全てが現存しているわけではありません。



こちらは武市瑞山先生が居られた居間となります。

数少ない当時のまま、保存されている部屋となります。



こちらは居間の柱にある刀傷です。

伝承では、坂本龍馬が酔っぱらってつけた刀傷ということです。



武市瑞山先生の生家の近くに小さいながらも、記念館があります。



記念館にある「旧武市半平太銅像の刀」です。

昭和54年、須崎市に武市瑞山先生の銅像が建立されましたが、顔つきなどが悪く「不細工」だと不評であったため、昭和60年代に新しく男前の武市瑞山先生の銅像が建立されました。

こちらの刀はその旧銅像の刀で、このように保存されています。  
※手首つきです。   




同じく記念館にある武市瑞山先生の木像です。



こちらには武市瑞山先生をご祭神とする「瑞山神社」があります。

境内には瑞山先生が獄中で詠んだという漢詩が刻まれています。

「花依清香愛 人以仁義栄 幽囚何可恥 只有赤心明」
(花は清香に依って愛でられ、人は仁義を以て栄ゆ。幽囚何ぞ恥づべき、只赤心の明かなるあり)



武市瑞山先生のお墓です。

瑞山先生が切腹してからも度重なる嫌がらせを受け、お墓は何度となく踏み倒されてしまいました。

お墓の右上部分が欠けているのは、その際に破壊された傷跡ということです。

瑞山先生が切腹したことにより、土佐勤王党は壊滅します。しかし維新となり倒幕の兵を土佐が挙げるとき、大政奉還を主導したのは後藤象二郎であり、土佐藩兵を率いたのは板垣退助でした。

維新後、木戸孝充が山内容堂に酔った席で「なぜ武市瑞山を斬ったのか」と迫ったところ、容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたきりだったと言います。

しかし晩年、死期が迫ったとき、容堂は瑞山先生を斬ったことを悔やんでおり、病床で「半平太、許せ!許せ!!」と何度もうわ言を言ったと伝えられています。

明治17年に土佐勤王党に生き残りであった田中光顕らが中心となり、瑞山会が結成され、名誉回復がなされます。

瑞山の妻、富は瑞山の切腹により家禄は召し上げとなり、生活は甚だ困窮しました。

明治39年に田中光顕は富に援助の手を差し伸べ、これにより生活は安定し、瑞山と養子となった半太も医者となることができました。

瑞山先生が正四位を贈位されたとき、後藤・板垣両名から「武市半平太先生を殺したのは、我々の誤りだった」と謝罪の言葉があったと言います。

現在、瑞山先生の生家と墓所は国の史跡となっております。