「心」とは | 仏光さんの心の相談室

「心」とは

仏光さんの心の電話相談室はこちらをクリック

 

仏光さんの心と体の学校Webサイトはこちら

 

前回のブログにも書きましたが、出雲大社から帰ってきてから物理的に明らかに違う事が起こっています。結局先週は新規の人の予約はいきなり普段の週の3倍になりました。それに伴い大変厄介な症状の人も増えました。もちろんどこの病院に行っても治らなかった人達ですが、私でも一生懸命無痛自律神経療法をやって歯が立たなかった人が一人居られます。だから私は神ではありませんね。やはり回復率95%の壁はなかなか破れません。もっともっと精進が必要です。

 

今日はオフィスのパソコンの調子が悪くて、大手電機メーカーに勤めていた友達に直してもらっていました。朝から半日パソコンにかかりっきりになって、やっと使えるようになりました。普段やり慣れない事をしていたので、疲れてしまって今日の水泳はお休みにして午後は昼寝をしました。明日からの仕事には支障がなさそうなので一安心です。友達がパソコンを直している間に、来月に頼まれている講演の準備を少ししました。

 

「心と健康、心身一如」という演題で、再度「心」というものについて何を話そうかなと色々考えてみました。多くの人は「心、心」と言いながら普段「心」についてあまり考えることなく過ごしていますが、「心とは何か?」と考えると大変面白いものが見えてきます。たぶん私は四六時中「心」を意識して過ごしていると思います。今までのブログでも心について色々書いて来ましたが、振り返ってみると膨大な量になります。本一冊では足りません。たぶん十数冊分あるでしょう。それをたった1時間半の講演で話さなければならないので、ちょっとまとめる必要があります。

 

皆さんに「心はありますか?」と聞くと、全員「あります」と答えます。私も「あります」と言います。では「何処にあるのですか?」と聞くと、胸や頭を指す人が多いです。でも胸や頭を解剖しても「心」というものは出てきません。実際は自分の心は何処にあるのかも分からないのです。体は手とか足とか胴体とかちゃんと実体がありますが、心には実体がないのです。実体がないから「心は無いのか?」というとやはり心はあるのですね。

 

これは例えば「空(そら)」みたいなものです。私たちは上を見上げてそこに青い空があると思います。でも実際は地上から宇宙に続く「空間」が広がっているだけです。その空間には空気があり、雲もありますが「空」という実体は無いのですね。では「空は無いのか?」と言うとちゃんと空は上にあるのです。見たらそこに空が在るのが分かります。実体は無いけれども確かに在るというのはそういうことです。

 

私は筋トレに励んでいますが、「私の体が私の本質か?」と聞かれると、「いや私の体が私の本質ではない」と言います。私を私にしているのは私の「心」です。だから私という存在の本質は私の心にあるのですね。しかもその心には実体がありません。心は自分の心でも見えないし、何処にあるのかも分からないし、匂いもないし色もありません。この実体の無いものが私を私にしている本質なのです。掴みようがないこの心が「私」なのです。世の中ではその実体の無いものが「辛い」とか「悲しい」とか「嬉しい」と言っているのですね。

 

そういうことを考えなくても一生を終える事はできますが、そうなると自分という本質を一生知らずに終わる事になります。何十年も生きて来て自分の本質について何も知ることもなく終わるのですね。私は自分の本質について何も分からずに死ぬのは嫌だなあと思うので、色々考えてみるのです。そして修行を通して自分の心の本質を見ようと努力するのですね。この努力は実生活でも大変役に立ちます。

 

物理学というのはご存知の通り実体のある物に適用されます。宇宙の星でもガスでも塵でも実体のあるものに物理の法則が適用されるのですね。「実体」があるから「物理(物のことわり)」なのです。だから実体の無いものについては物理学は適用できません。「心」などはその良い例です。体は実体があるので物理の法則が適用されます。物理にはエントロピーの法則(エネルギー劣化の法則)があり、それが適用されて私たちの体は時間と共に劣化(老化)し、滅んで行きます。まあ死ぬわけですね。

 

でも「心」は実体がないので時間と共に滅びるということはありません。と言うことは、体は物理的に死んでもその人の心は実体が無いので死ぬ事は無いと思います。死なずに残るから輪廻転生もするでしょう。「心」が脳での電気信号と脳内物質を初めとする化学反応の結果だけで全部作られているとは思えません。

 

そういう側面もあるけれども、私の本質である心はそれだけでは無いのですね。どうしても実体の無いそれ以外の「何か」があるのです。その「何か」が私の本質の「核」だと思います。私はそれを「心のエネルギー体」と呼んでいるのですね。世の中ではそれを「魂」と呼んだりしています。これを否定して「修行だ。無心だ。科学だ。心がどうのこうの・・・」と言っていても、その心の修行は本質をはずしています。ただ修行の「形」を踏襲しているだけですね。いくらそれらしい格好をして厳かな雰囲気の中、坐禅などをしていても、これでは修行のコスプレです。

 

私たちが一生をかける価値があると思い、獲得するのに人生の膨大なエネルギーと時間を使い大切にするお金とか、家とか、社会的地位とか、名誉とかは、死ぬと同時にその人にとって一切その価値を失います。死人には何の価値も無くなるわけです。だから私はいずれ何の価値も無くなるものに生涯を使い、執着するのではなくて、体は死んでも残るであろう「心のエネルギー体」を生涯をかけて大切にして育てようと思ったのです。

 

私は自分の心を育てる事が、現世と言われる「今、此処」で私たちが生きている意味だと思いますよ。人がどうであれ、私は必ず時間が来れば価値が無くなる物に一生をかけるのではなくて、永遠に残っていく「心」という私の本質に一生をかけようと思います。まあこんなところが講演の内容になるでしょうね。振り返ってみると今日も良い日曜日でした。ありがとうございます。

 

合掌

 

仏光

仏光さんからのお願い

下二つのアイコンのクリックをお願いします
 

人気ブログランキング参加中。クリックをお願いします

禅僧 仏光さんの心の相談室-バナーブログランキング

ブログ村ランキング参加中。こちらもクリックをお願いします

禅僧 仏光さんの心の相談室-バナーブログ村

 

仏光さんのfacebookはこちらです