前述した60年安保闘争は終わりそれから10年。

 間にベトナム戦争反対のベ平連運動とかあって。米国でも平和を求める若者達のフラワーチルドレンやロック&ピースの動きもあったけれど。日本では経済成長の右肩上がりもあって、反政府的な運動にまではならなかった。デモも多少の軋轢はあっても穏やかだったと記憶している。

 年安保闘争のきっかけは何だったのか。これについてはかなり一般的に誤解もあようで整理しながら。

 S39年から41年にかけて、慶応大学・中央大学・早稲田大学で、まず学費値上げ反対闘争があったんだよね。
 ほぼ同時期に、東大初め幾つかの大学で、医学部の登録医制度やインターン制度について、旧態依然とした規制に対して、学生の自由選択を求めて改革を求める声があがった。

 大学の制度改革の高まりが前提にあったんだよね。それがやがて、各大学の枠を超えて全大学に広がっていく。43年のピーク時には全国の大学の8割にあたる165校が紛争状態になって、70校の大学が、バリケード封鎖されることになる。

 代表的な東大闘争と日大について見てみると。43年に東大医学部の自治会と、41青年医連(その年に卒業した研修医)が、登録医療制に反対して無期限ストを打った。
   この時の交渉で、医局長に暴行したとして大学側が17名の学生を処分し。停学、退学勧告が出されたんだね。これも無茶な話しで苦労して入学してインターンまでいっていきなり一枚の紙で即、退学とはね。

 処分された研修医の中には、その時東京にいなかった学生までいて問題が激化した。大学も慌てて見せしめ処分に走ったんだろうけど、その処分に抗議する学生数十人が安田講堂で集会を開いた。ところが大学側が即日、機動隊を導入してこれを排除したんだね。当然、政権と大学上層部に暗黙の了解があったんだろうと思われる。即、機動隊導入が普通であるはずもない。

 これをきっかけに、7学部が無期限ストに突入して、全学部に波及していった。安田講堂前で1万人集会が開かれたが。大河内東大学長との交渉は決裂して再び学生達は安田講堂を占拠。

 全学共闘会議の代表は山本義隆で、不当処分撤回と機動隊導入批判を大学側に求めた。
山本は1941年大阪生まれ。東京大学理学部物理学科を卒業、大学院博士課程在籍の将来を嘱望される若き院生だったんだよね。

 「量子力学の誕生」「知性の反乱」など著作も多く、現在は(この記事を書いた2010年は予備校の講師。

 安田講堂の攻防はS44年1月18日、機動隊8500人が導入され立て籠もった500人の学生が投石・火炎ビンで抵抗し35時間の攻防の果てに、300人以上の逮捕者、76人の重傷者を出して終わった。放水の嵐の中、屋上に最後まで翻ったアナキストの黒い旗は印象的だった。



 一方、自分が知ってる日大闘争の切っ掛けは、理工学部の裏口不正入学に絡む脱税事件で。国税局調査により発覚した22億の使途不明金だった。これが当時の吉田会長から政権に裏献金されていたとか私腹になっているとか。直後に経済学部会計課長が失踪して、理工学部会計主任の自殺と疑わしい事件も相次いだ。

 利潤優先のマスプロ教育や裏口水増し入学、学費値上げの上に使途不明金、抗議する学生達の自治活動の制約、集会・ビラ掲示の禁止などが立て続けにあって、大学側の右翼・体育会系学生の集会への妨害や暴行に学生達の反発が強まっていった。

 ゲリラ的な集会があちこちで開かれて。神田の日大経済学部前に2000人以上の学生が集まって初めてのデモを行なわれた。
 これに対して大学側がいち早く校舎をロックアウトし学内立ち入りを禁止したり、体育会系の学生に校門で検閲、守備をさせたりで。抗議運動がいっきに広がっていった。

 やがて約5000人の学生によって三崎町の白山通りは埋め尽くされ、全学部総決起集会によって全理事の総退陣、経理の全公開、検問制度撤廃等の要求を突きつけて日大全共闘が結成されていった。

 日大全共闘議長は秋田明大(あきひろ)1941年広島生まれ。演説は上手くなかったけれど茫洋とした包容力があって学生達の信頼も厚かった。現在は故郷広島の呉市で自動や工場を営むとか。

 やがて経済学部の学生集会に、大学側の雇った右翼などが襲撃をして300人以上の学生が負傷した事から、全学部無期限ストを打ち構内をバリケード封鎖で校舎を占拠した。

 それでも一度は吉田会頭と全理事が出席して両国講堂で、35000人の学生と交渉が持たれ、12時間の交渉の末に大学側が全面的に要求を呑んで確認書が交わされたの。

 多くの学生は、これで争議は収束して学業に戻れると安堵したと聞いた。日大・東大闘争団はじめ、全国学生総決起集会が安田講堂前で開かれて学生側も勝利を信じた。

 ーところが。
当時の佐藤栄作首相が閣僚懇談会で「この大衆団交は集団暴力であって許せない」と発言したことから、大学側は確認書を白紙撤回したんだよね。学生達も驚いたと思う。実際に秋田に近い友人は怒りをぶちまけて言っていた。卑怯だろっと。

 これ以降、政権は全面的に第4・9機動隊を導入して徹底的に各大学のバリケード解体を命じて、学生闘争は路上へ広がって行った。

 秋田明大以下8名の学生に逮捕状が出て、S44年3月渋谷で秋田は逮捕される。この間、ゴールデン街のむささびってスナックの二階に、彼が潜んでいたのを知っている。知っている人は結構いたと思うが、むささびのおみっちゃんは人望があったしね。

 まぁ、細部の資料を読むと、かなり酷い状況がある。個人的な意見はあまり挟まなかったんだけど。芸術学部は芸闘委って呼ばれてかなり戦闘的でもあって。前線には参加しなかったが友人達からは刻々と情報は入ってきた。

 仲の良かった男子学生が失明したり、放水車の水に硫酸が入っていて、女子学生が全身火傷で運ばれたり、右翼が日本刀持って襲ってきて、外に逃げた学生が交番に逃げこみ、警官は外へいってしまい、腰から足まで切られた人とかもう騒然とした雰囲気だった。

 デモに参加していただけでも、アパートに公安が来て大家に追い出されたりバイト先にまで来てクビになったり、親に泣かれたりで学生達も疲弊して行ったんだよね。

 こういう背景があっての70年安保だった。それはやがて、日米安保条約の自動延長を阻止して、日本から条約破棄を通告させようとする自立運動にも発展していった。

 1967年(S43年)ー1969年にかけて全共闘や、新左翼諸派の学生運動が全国的に広がっていき、「70年安保粉砕」を共通スローガンとして大規模なデモが全国で継続的に展開された。

 1967年10、11月の羽田闘争。68年1月の佐世保エンタープライズ帰港阻止闘争。これは非核三原則を破る密約があったとか後に判る。4月の沖縄デー闘争、10月の新宿騒乱事件(騒乱罪適用)69年4月の沖縄デー闘争、10月の国際反戦デー闘争。

 11月の佐藤首相訪米阻止闘争などの一連の闘争を「70年安保闘争」と位置づけて展開した.

 国会前へのデモは1970年6月14日に行われたんだけど新左翼の学生達や組織は、その2年前からの路上実力闘争ですでに疲弊しきっていて。
 「威力闘争」あるいは「政治戦」と位置づけて、実力闘争よりも大衆動員に力を入れたのだが。

 メディア戦略もあって大衆性を保てず、組合も60年の頃より弱っていた。山谷、釜ヶ崎などの自由労働者の連帯もあったのだが。
 安保条約は自動継続が決定され、安保条約そのものに対する一般的な運動としては盛り上がらずに、少数の新左翼各派の運動として終始してしまった。

 社会党や共産党などの既成左翼勢力は、「70年安保闘争」を沖縄返還運動とセットの国民運動として位置づけて、安保自動延長そのものには、60年安保時ほどの力を入れなかったこともある。「安保条約延長反対」への世論と運動への国民の支持も薄く、幅広い市民の参加もそれ程見られなかったんだね。

 1969年(S44年)12月の総選挙では、当時の佐藤栄作内閣、自民党は国会での議席を増やす一方、「安保延長」に反対した社会党は約50議席を減らして大敗して、佐藤長期政権は1972年(S47年)まで7年継続して。ノーベル平和賞さえ貰ったりした。

 この後は、あきらめ感からシラケ世代と呼ばれる世代に移っていき、残った新左翼派は先鋭化して過激になって行く。それが日航ハイジャック事件、赤軍派の浅間山荘事件に繋がってしまう。

 評価は様々でも、ついこの間の事件であり、改めて眺めてみると安保条約は今もあって、それが普天間の問題にも深く係わってるんだよね。岸、佐藤と続いた政権は三角大福時代をへて中曽根に代わり、学生達の締め上げは厳しくなったが、人々の関心は政治から離れていった。

 個人的には最悪の自民党政権時代と感じていたけれど、今の有り様を眺めるとさらに最悪な政権だと感じてる。共謀罪が強行採決されれば、まずあのような争議は起きないだろうね。

だが、また「横浜事件」は再現され、花見の相談だって恣意的に罪状になりかねない。政権批判など口に出来ない不自由な未来など、見たくはないものだよね。これを書き直した翌日の今日、強行採決かぁ。

記憶の誤りはともかく、自分のメモ的記事で、ご批判はご容赦です。